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“やらないこと”は、誰かの“やる”を開く

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NPO法人Waffle カリキュラム・マネージャ / 株式会社万葉 フェロー

鳥井雪

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「もっと成果を出さなきゃ」「スキルを増やさなきゃ」。そんな焦りに押され、やることを積み重ねていないでしょうか?けれど、本当に働き方を変えるのは“足し算”ではなく、“引き算”かもしれません。この企画では、エンジニアたちがあえてやめたことと、その後に訪れた変化をたどります。ムダをそぎ落とした先に残る、本当に大切な仕事や自分らしい働き方とは。誰かの“やらない選択”が、あなたの次の一歩を軽くし、前向きに進むヒントになりますように。

鳥井雪です。わたしは株式会社万葉というRuby/Railsが得意な会社でWebプログラマーを長いことやるかたわら、『ルビィのぼうけん』『Girls Who Code 女の子の未来を開くプログラミング』など低年齢や初心者向けのプログラミング入門書を翻訳したり、オライリー・ジャパンから『ユウと魔法のプログラミング・ノート』という本を出版しました。現在では、テクノロジー分野でのジェンダーバランスの是正を目標としたNPO法人Waffleのカリキュラム・マネージャを務めつつ、万葉にはフェローという形で関わっています。

わたしには二つの「やらないこと」があります。
 一つは「自分ではできないことをしない」
 一つは「大変さを隠さない」

そしてこの二つに従って行動を取捨選択するとき、もう一つ別の視点を補助線にしています。それは「”頑張ったらできない”ことがあるんじゃないの?」です。 

やらないこと1:自分ではできないことをしない

まず一つ目のやらないこと、「自分ではできないこと」の話をします。

昨年の11月、中高生Rubyプログラミングコンテストを開催しました。プログラミングコンテスト、なかなか自分で「開催しました」という言い方はしないと思いますが、しました。実行委員長を務めました。

実行委員長ってつまり頼まれて長になっただけ? と思われるかもしれませんが、違います。やりましょう、と宣言してやりました。

経緯としては

  • 14年間続いた「中高生Rubyプログラミングコンテストin三鷹」が、運営団体の撤退判断により存続の危機に
  • 以前よりコンテストの実行委員として関わりがあったため、事前に情報が共有され、「代わりに続ける人がいれば続ける」の話をされる
  • 「じゃあわたしやりますね」と手を挙げる

という流れです。

でも、当たり前ですが、開催はわたしの力だけでできるものではありません。というか、わたしがやったことはほぼ無です。

  • 「やりましょう」と言う
  • 「やるんですけど協力してください(特にお金と人手)」のブログを書く、人にお願いする
  • コンテスト応募・審査用のWebアプリをつくる

これだけです。他はわたしより有能で丁寧でちゃんとした人たちがやってくれました。

プログラミングコンテスト開催にあたっては、無限にやることがあります(ということを引き受けて知りました)。

学校やプログラミング教室への募集告知、先生方へのやりとり、後援やスポンサー募集、応募後のやりとり、チラシ発注、デザインワーク、審査委員のお願い……本当に無限にあります。

もちろん全ての仕事は一人では回せません。それにしても、「やります」と言った手前自分が働かないのはどうだろう……さすがに何もやらなすぎでは……という後ろめたさはありました。特に自分が苦手な業務、人や団体との丁寧な連絡。こまめなサイト更新などは人に頼りきりでした。そうして来年もきっとこんな感じでいろんな方に頼るのだろうと、正直今からもう後ろめたいです。

こんなとき、自分はよく、次の二択で考えてしまいます。
「得意でないことも自分で頑張って克服する」or「得意なことを頑張って、苦手なことはその作業が得意な人に頼るか」

この二択、やっぱり後者がいいですよね、と思いたいものです。

けれどその二択に陥る前に、もう一つ別の視点からも考えることができます。それが、「”頑張ったらできない”ことがあるんじゃないの?」です。

自分だけが頑張ると、失われるものがある

わたし一人が頑張っちゃったら何ができなくなるでしょう。

まず、普通にプロジェクトが頓挫します。頑張ったところで苦手なことをやっていると割とすぐに限界が来るので、遅滞するメールのやり取り、破綻したスケジュール、更新されないサイトが目に見えます。

という寒々しい現実の他にも、さまざまな「できないこと」があります。

  • これまでの「中高生Rubyプログラミングコンテストin三鷹」14年間の知見を引き継ぐ
  • コンテストの運営の知見をRubyコミュニティに蓄積する
  • Rubyの未来をつくる重要なプログラミングコンテストについて、Rubyコミュニティの人々の有能な力を借りる
  • Rubyコミュニティの人々に、コンテストに積極的な係りと当事者意識を持ってもらう
  • 関わってもらったRubyコミュニティの人々に、コンテストの良さを知ってもらう

わたしが「頑張ってしまう」と、これだけの素晴らしいことが起こらないのです。

こう考えると、だいぶ「あんまり何もしない」ことの良心の呵責が和らぎますね。

そしてそれ以上に、自分がやった方が良いことと、やらない方が良いことの区別がつきやすくなります。

自分がやるべきなのは、「コンテストをやりたい」意思をはっきりと示し、人に力を貸してほしいと伝える部分。(あとWebアプリをつくるのはそれなりに得意なのでそこもやっちゃう)

やらない方が良いのは、力を貸してくれる人たちの「関わり方」を狭める部分。なんでも自分でやろうとしてしまうと、力を貸してくれる方々がコンテストのことを知り、経験し、愛着を持ってもらう機会を奪うことになります。

「”頑張ったらできない”こと」を考え、このように整理できました。

「もう鳥井さんじゃない人が話した方がいい」

このような考え方をするに至ったきっかけがあります。

わたしは十年と少し前、Rails Girlsという活動を日本で広げました。女性に技術の力でエンパワメントするための二日間のWebアプリケーション作成ワークショップを開催し、初心者の女性をRubyコミュニティに接続する活動です。フィンランドで始まり、世界中のどこでもその土地の人が開催できるよう手法が公開されています。

日本で初のRails Girlsの開催時にコーチとして参加し、東京での第二回をオーガナイザーとして引き継ぎました。Rails Girlsをやりたい、という熱意を持つ人は全国各地にいて、けれど日本でやった経験がある人間はほとんどいませんでした。それで、いろんな場所のRails Girlsに赴いてコーチとして参加したりしてました。東京では、二日限りのワークショップのアフターフォローとして定期的に勉強会を開催もしていました。

けれど、わたしは定期的に何かを続けるのがあんまり得意ではありません。勉強会の開催はそのうちぐだぐだになりそうだったところを、「ちゃんとできる」人が定期開催を引き取ってくれました。また、Rails Girlsそのものの活動も、そもそも存在を知ってもらうためにカンファレンスなどの場で発表していましたが、そのうちその役目は各地でRails Girlsを開催した新しいオーガナイザーに代わっていきました。

当時そのどちらも、わたしはうっすらと「自分が役目をさぼっていて申し訳ない……」という気分があったように思います。

ある時、活動初期からサポートに力を貸してくれていたエンジニアが、何かの発表の相談のときに「もうそろそろ鳥井さんとかじゃない人が話した方がいいよ」とおっしゃったのが、自分の中のきっかけでした。あるいはそう聞いて、かなり気が楽になった、というのが本当のきっかけかもしれません。

思えばRails Girlsはそもそもやりたい人がやる仕組みです。やると手を挙げている人も当たり前にやりたくてやっているのです。わたしは関係なくても良い、というかその場所に居つづけることで邪魔になってしまう可能性がある。

自分が頑張ってしまうとできないことがある、という一つの考え方はRails Girlsの仕組みそのものが教えてくれたように思います。

やらないこと2:大変さを隠さない

さて、もう一つのわたしがやらないと決めていること、「大変さを隠さない」についても話をさせてください。これも最終的には「頑張ったらできないことがある」話になります。

プロジェクトにおいて、大変さを一人で抱え込むことなく開示していくのは重要だ、という話はよく聞くと思います。大きな火種になるよりも前に周囲がサポートできるのが健全だ、というやつですね。

それは全く正しいのですが、わたしが心掛ける際にはもう少し別の角度からも考えています。

例を挙げます。わたしは今WaffleというIT業界のジェンダーギャップ解消を目指すNPOに所属しています。その活動として、女子・ノンバイナリーの中高生や大学生に対してプログラミングのワークショップや授業をすることがあります。現地開催もあるのですが、多いのはオンラインで、家から、という形です。そしてその授業やワークショップが行われるのが休日や夜だとなにが起こるかというと──子どもが仕事場に乱入してきます。

今、わたしの家には小学三年生と保育園年長の二人の子どもがいます。お母さんお仕事だからね、という話が通じない年齢ではないのですが、それはそれとして、色々な理由で子どもは仕事場に乱入してきます。おねーちゃんがイヤなことを言った、本を読んでほしい、おなかがいたいような気がする、宿題を見てほしい……本当にいろんな理由で!

仕事場に鍵をかけてシャットアウトすることはできます。夫も在宅勤務で基本は家にいるので、本当に困ったことにはなりません。でもわたしは無理に、頑張って子どもたちを締め出すことはしません。子どもたちを宥めたり叱ったり事情聴取したり調整したりのバタバタを、プログラミングの授業の合間にやっています。大変さを隠さない、をしています。

ここで”頑張って”子どもたちを締め出し、スムーズな授業を実現したときに、できなくなることはなんでしょう。それは、「子育てしながら仕事をすること」についての実感を社会に持ってもらうことです。

プログラミング授業の参加者である中高生あるいは大学生は、将来職について色々な人と働くことでしょう。子どもを育てながら働くかもしれないし、子どもを育てて働く人と一緒に働くかもしれません。その際、「子どもを育てるというのはこんなことが起こる」「こういうふうにやっていく」という姿を見たことがあるかどうかで、心構えや理解はかなり変わるのではないでしょうか。

逆にこれまでは、子育てしながら働いてきた先達が、その大変さを社会の目から押し隠し、「子どもを育てながらでも立派にやっていける」を証明してきた流れがあります。そうやって勝ち取ってきたものの上に現在の、子育てしながら働くのは当たり前、の社会があります。ですがその先達の“頑張り”が、子育てしながら働くことの大変さを働き方の設計に組み込まない社会の形に繋がってもいるように思います。

自分の大変さは、過去の誰かの大変さであり、この先の誰かの大変さでもあります。「大変さを隠さない」ことでようやく存在が認められ、じゃあその大変さをどうしよう、と考えが進んでいく。

それを期待して、「大変さを隠さない」をやっています。

“やらないこと”は、誰かの“やる”を開く

「自分ではできないことをしない」と「大変さを隠さない」、二つの自分のやらないことのお話をしました。思えば、この二つには共通点があるように思えます。自分が、と頑張って何かを完璧にしようとするとき、それは同時に他の誰かの働きや関わり、社会が何かを知る機会を奪っている。やらないことを選ぶのは、その空白を誰かや社会に渡すことだ、と今は考えています。

「やる」と決めることは「やらない」を選ぶことでもある、というのはよく言われます。同時に「やらない」を選べば、自分以外の誰かが「やる」を選ぶ道を開く、という視点を持っていたい。そうすることで、自分が本当にやるべきことを立体的な視野で選べる、と感じています。この考え方で、わたし自身のやらないことを選ぶ感触は少し変わりました。

みなさんの「やらないこと」はなんでしょう。やらないことについて考えるとき、ぜひ、その「やらないこと」は誰に向かって開かれるのか──そのことも合わせて考えてみてください。