「もっと成果を出さなきゃ」「スキルを増やさなきゃ」。そんな焦りに押され、やることを積み重ねていないでしょうか?けれど、本当に働き方を変えるのは“足し算”ではなく、“引き算”かもしれません。この企画では、エンジニアたちがあえてやめたことと、その後に訪れた変化をたどります。ムダをそぎ落とした先に残る、本当に大切な仕事や自分らしい働き方とは。誰かの“やらない選択”が、あなたの次の一歩を軽くし、前向きに進むヒントになりますように。
BASEで執行役員をしている柳川です。エンジニアから始めて、PdM、事業責任者と歩んで来ました。
僕の地頭は、怒りからつくった「翻訳機」だった
先に正直に書いておきます。僕は、処理速度が速いわけでも、記憶力がいいわけでもありません。情報を順番に積み上げて結論にたどり着く、というタイプではないのです。どちらかというと、直感で「これはこうだ」と先に結論が来て、それを勢いと謎の説得力で押し切る人間です。
厄介なのは、この「直感で掴んで押し切る」やり方が、それなりに通用してしまうこと。だから長いあいだ、僕はこれを自分の武器だと思っていました。
若い頃はずっと怒っていました。直感で掴んだ感覚が、まわりに伝わらないからです。「なんでこんな当たり前のことがわからないんだ」と。掴んでいるのに伝わらない、という苛立ちです。かといって、力でねじ伏せる腕力があるわけでもない。ストレートに怒っても仕方がないことは嫌というほどわかっていました。だから僕は、相手を内側から納得させるための言葉を、後から必死で覚えました。論理の言葉も、感情の言葉も、本来の自分の母国語ではないものを、無理やりインストールした感覚です。
これがいわば、僕の「翻訳機」です。直感で掴んだものを、相手に伝わる言語に翻訳して渡す装置。もし僕が少しでも物事をわかっているように見える瞬間があるとしたら、その正体はたぶんこれで、才能ではありません。伝わらなかった怒りを原動力に、力不足を補うために、仕方なくつくった産物です。
この翻訳機は、確かに人を動かせます。掴んだことを相手の言葉で渡せるので、納得してもらえる。でも、です。同じエンジンが、放っておくと別の方向に暴走します。答えを早く出したがり、問いを早く閉じにいくのです。直感で即断する。伝わらないのを相手のせいにする。1つの正解にねじ伏せる。どれも、自分の「掴んだ何かを」を守るための動きです。
複雑な問題ほど、効いてくるのは「単独で答えを出す力」よりも「良い問いを、答えが出るまで抱え続ける力」でした。答えは状況が変われば古くなりますが、良い問いは状況が変わっても効き続けます。そして良い問いは、放っておくと勝手に閉じてしまう。「問いが閉じる」というのは一般的な日本語ではないので伝わらないかもしれませんが、結論を急ぐことです。特に、僕のような押し切り型の人間の手の中では、あっという間に閉じます。
世の中にはやってみないとわからないことがたくさんあるので、とにかく早く結論を出して実行する。これは特にスタートアップ的な、リーンの文脈では正しいことだと思います。捨てるべきではない特徴なんですが、それだけではこれ以上人を巻き込むことはできないなと感じました。
だから僕は、より良い問いを持ち続けるために、自分のこの性質に逆らって、3つのことを「やらない」と決めています。時間で閉じる、他者で閉じる、論理で閉じる。今日はその話を書きます。
念のため、これは「みんなこうすべき」という話ではありません。放っておくと真逆をやってしまう自分への、戒めの話です。
やらないこと①:答えが見えたら、すぐに場に出すこと
ひとつ目は、答えが見えても、すぐに口に出すことをやらない、です。
直感で掴むタイプは、結論が「来る」のが速い。会議で議論が始まった瞬間には、もう「これはこうだろう」と見えています。しかも厄介なことに、僕は「なぜこの問題が今起きているのか」という根っこを掘るのが、わりと得意なほうです。速くて、それなりに当たる。だから昔は、見えた瞬間に全部しゃべっていました。
問題は、答えが間違っていることではありません。むしろ逆です。速くて、当たっているからこそ、まわりを黙らせてしまう。これが、長い間気づかなかった副作用でした。
以前、メンバーが状況を説明している途中で、僕は「要するに、こういうことだよね」と一言で言い当てて、議論を先に進めたことがあります。当たっていたし、効率的だと思っていました。でも後になって、その人が「柳川さんがいると、自分が考える前に答えが出てしまうので、だんだん考えるのをやめていました」と漏らしていた、と知りました。僕の速さは、その人の問いが育つ前に、刈り取ってしまっていたのです。
なぜやめたのか
リーダーが速くて正しい答えを出すほど、まわりは「もう答えが出ているなら、自分が考える意味はない」と感じます。特に経験の浅いメンバーほど、口を開く前に、半端な考えを引っ込めてしまう。
でも、その引っ込められた半端な考えのなかにこそ、次の問いの種があります。僕が1人で出す「正しい答え」は、その瞬間は効率的でも、チームから問いを考える機会を奪っていく。速さで場を閉じると、短期的には進みますが、長い目では、自分以外の誰も問いを持たないチームができあがります。
実際には別に答えを持っているわけじゃないんですよ。対話する中でわかっただけ。でも振る舞いによっては答えを持っているように見えてしまう。見えてしまうというのが問題。
どう実践しているか
やっているのはシンプルで、答えが見えても、いったん飲み込むことです。
自分の結論は口に出さずに、ファシリテーションする。黙るのではなくてファシリテーターとしての発言を増やすのが大事。結論があれば自分は最後に話す。いや直接話さずとも結論が出るのがベスト。
そして、どうしても自分の結論を伝えるべきときは、渡し方を変えます。世の中ではよく「結論から話せ」と言われます。でも、結論が早く来てしまう僕がそれをやると、相手にとっては結論が天から降ってくるだけで、考える余地が残りません。だから僕はむしろ逆で、結論を先に掴んでいるからこそ、そこに至るまでの過程を、ていねいに再現して渡すようにしています。どの順番で、何を見て、なぜそう思ったのか。過程を共有できれば、相手は自分の足でその道を歩いて、同じ結論に、ときには、もっと良い結論に、たどり着けます。結論を渡すのではなく、結論にたどり着く道を渡す。これが、今の僕にとっての「伝える」です。
これは、生まれつき持っている力ではありません。放っておけば全部しゃべってしまう人間が、後から必死で身につけている、不自然な技術です。
何が変わったか
場が、静かにならなくなりました。様々な考えが出てくるようになり、そのなかから、自分が見落としていた角度がちゃんと出てきます。そして何より、人が萎縮しなくなった。僕の速さは武器のままですが、人を削る刃ではなくなってきた実感があります。
やらないこと②:噛み合わないとき「相手が間違っている」で片付けること
ふたつ目は、議論が噛み合わないときに「相手が間違っている」で片付けることをやらない、です。
これは、いちばん意識しないと出てしまう癖です。なにしろ出発点が「なんで当たり前のことがわからないんだ」という怒りだった人間ですから、放っておくと、噛み合わない理由をすぐに相手の側に置こうとします。
レビューでも、1on1でも、部門間の調整でも、「なぜかこの人とは話が噛み合わない」という場面があります。こちらは正しいことを言っているのに、伝わらない。同じ言葉を使っているのに、結論が逆になる。
こういうとき、いちばん簡単なのは「相手の理解力が足りない」「相手がわかっていない」と結論することです。それで自分は傷つかずに済みます。でも、その瞬間に問いは閉じます。「なぜ噛み合わないのか」という、いちばん面白い問いを手放してしまうのです。
なぜやめたのか
噛み合わなさの大半は、能力でも悪意でもなく、前提の違いから来ている、と考えるようになったからです。
同じ「品質」という言葉でも、ある人は「障害を出さないこと」を指し、別の人は「速く価値を届けること」を指している。同じ「丁寧」でも、片方は「説明を尽くすこと」、もう片方は「相手の時間を奪わないこと」を意味している。見ている前提が違えば、正しさも逆向きになります。
「相手が間違っている」で閉じると、この前提のズレが永遠に見えません。そして次も、同じ場所で噛み合わなくなります。皮肉なことに、翻訳機を持っているという自負があるほど、「ここまで翻訳してやっているのに伝わらないのは相手の問題だ」という油断が忍び込みます。
どう実践しているか
噛み合わないと感じたら、自分の主張をいったん脇に置いて、「この人には何が見えていて、こう言っているんだろう」を探しにいきます。相手の結論ではなく、結論の手前にある前提を聞く。「今の判断、なにをいちばん重く見てます?」と、前提そのものを質問にすることもあります。
頭の中では、相手の前提と自分の前提を並べた「地図」を描くイメージです。どこまでは同じ景色を見ていて、どこから道が分かれているのか。分岐点さえ特定できれば、議論は「勝ち負け」から「どっちの道がこの状況に合うか」という共同作業に変わります。
昔から意識しているのが、「10聞いて1投げる」という感覚です。自分が言いたいことを1投げる前に、その10倍相手の前提を聞く。直感で掴んだ結論をそのまま投げると、たいてい暴投になります。率直であることと、そのまま言うことは違う。本心は曲げずに、相手に届く強さに翻訳して渡す。そうしてようやく、議論は噛み合う側に乗ります。
恥ずかしい話をします。以前の僕は、自分の正義を一方的に押し付けていました。自分の中の「正しさ」という狭い文脈しか読み込めず、あちこちで衝突していた。あるとき、僕の主張の強さに辟易した人から、「柳川さんは、親でも人質に取られているんですか」という一文が誤って届いたことがあります。それくらい、こちらの圧は一方的だったわけです。今思えば、噛み合わなさを全部、相手の側に置いていました。
変わるきっかけは、立場を入れ替える経験でした。エンジニア、PdM、事業責任者と役割を変えるなかで、それぞれの立場が抱える「切実な正義」を、自分の身で味わった。すると、ようやく一歩引いて、相手の前提を受け止められるようになりました。「相手が間違っている」のではなく、その人の立場からはそれが正しい。そう見えるようになったのです。
何が変わったか
「言い負かす」ことに使っていたエネルギーが、まるごと減りました。相手を敵だと思わなくなるので、感情の消耗が小さい。そして何より、自分の前提のほうが浅かった、と気づく機会が増えました。これが、次の問いの種になります。
それでも、今も怒ってしまう
きれいに「克服しました」と言えればいいのですが、正直に書きます。今でも怒ります。
PdMとしてデザイナーと組むとき、僕は自分でデザインをつくれません。でも「これはおかしい」という違和感だけは、なぜかわかってしまう。つくれないのに違和感だけ鋭い、というのは、相手からすればいちばん厄介なタイプでしょう。端的に言うと嫌なやつです。とくに、既存のコンポーネントをそのまま当てただけのものが出てくると、「考えるのを省いたな」と感じて、つい語気が強くなります。
違和感が当たっていること自体は、たぶん間違っていません。でも「おかしい」と思った瞬間に、相手の事情、時間がなかったのか、別の制約があったのかを飛ばして、相手のせいにしかけている。少なくともそう見えてしまう。だから、怒る前に「なぜこうなったのか」を一度聞く。伝え方の工夫も、できる範囲でしています。
ただ、これも1つの正解では片付けられないところがあって。聞いたうえで、それでもPdMとして「ここは譲れない」と判断したら、僕はあえて怒ることも選びます。怒らないのが成熟だ、とは思っていません。閉じるための怒り(自分の正しさを押し付けるだけの怒り)はやめる。でも、前に進めるための怒りは、役割として引き受ける。この線引きが、今もいちばん難しい。たぶん、ずっと難しいままです。
やらないこと③:1つの正解に決め切ること
みっつ目は、1つの正解に決め切ることをやらない、です。
直感で「これはこうだ」と掴む人間は、白黒をはっきりさせたがります。AかBか、正か誤か。きれいに決め切れたとき、強い手応えを感じる。エンジニアが大事にする整合性や一貫性とも相性がよくて、だからこそ「正解はひとつのはず」という思い込みに化けやすいのです。
でも現場の難しい問題は、たいてい「Aも正しいし、Bも正しい」という形をしています。そこを無理に1つに決めると、決めた瞬間は気持ちいいのですが、こぼれ落ちた側にあった大事なものを、まるごと見失います。
なぜやめたのか
アーキテクチャの設計を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。可用性と一貫性、開発速度と保守性、抽象度と具体性。これらはどちらかが正解なのではなく、トレードオフです。「どちらが正しいか」ではなく「この状況では、何をどの優先度で考えるか」を問うものです。
人や組織の問題も、構造はまったく同じだと考えています。「攻めと守り」「個人とチーム」「スピードと納得感」。1つの正解に決め切るより、両方に理があることを認めたうえで、今この文脈で何が効くのかを問い続けるほうが、現実に手が届きます。
どう実践しているか
2つの主張がぶつかったとき、「どっちが正しいか」を「両方が正しいとしたら今すれ違っている原因は何か」に置き換えます。対立を、矛盾として閉じるのではなく、抱えたまま持ち歩く。
たとえば「スピードを優先すべきか、品質を優先すべきか」という、よくある議論があります。以前の僕なら、どちらかに旗を立てて押し切っていました。いや、「両方だけど!」などという戯言を言ってたかも。両方に理があると認めて掘っていくと、本当の論点は「スピードか品質か」ではなく、「どこまでなら、後で取り返しがつくのか」でした。取り返しがつく部分は速く、つかない部分は丁寧に。対立していた2人は、どちらも正しかったのです。問いを立て直したら、答えのほうが勝手に形を変えました。
もうひとつ、自分の話を。以前、「プロダクトマネージャーは、どれだけ頑張っても創業者には勝てないのか」という問いを立てて、長い間考えていたことがあります。でも、今振り返ると、創業者と自分を並べて勝ち負けを測ろうとすること自体が、そもそも見当違いでした。勝つか負けるかではなく、ただ役割が違うだけ。「どちらが上か」という問いの形そのものに、何でも力関係で決めたがる自分の癖が、しっかり出ていたのです。問いを「勝てるか」から「役割をどう分け合うか」に置き換えたら、悩みのほうが消えました。1つの正解に決め切ろうとしていたのは、ほかでもない自分でした。
僕は今、ものの見方を複数持つことをテーマにした「複眼道場」という仕組みづくりにも取り組んでいるのですが、そこで一貫して大事にしているのも、この「1つに決め切らない」という姿勢です。矛盾を、解くべき欠陥としてではなく、抱えるべき情報として扱う。そうすると、問いはもっと長く、もっと深く持ち続けられます。
何が変わったか
判断が、状況に応じて柔らかくなりました。以前は「自分の立場」を守ることに必死でしたが、今は「この文脈では何が効くか」を主語にできる。立場ではなく文脈で考えると、人の意見も素直に取り込めるようになります。
いちばん手強い“やらない”:手に入れた力に、しがみつかないこと
ここまで、時間・他者・論理という3つの方向で、問いを早く閉じない工夫を書いてきました。最後に、今僕自身がいちばん格闘していることを、答えの出ないまま書いておきます。きれいにまとまらない話なので、現在地の記録だと思って読んでください。
僕は、伝わらない怒りから翻訳機をつくり、長い時間をかけて、それを使いこなせる状態まで持ってきました。掴んだものを相手の言葉に翻訳して、実際に人が動く。その手応えを握れるようになるまでには、相当な努力が要りました。やっと手に入れた力です。
ただ、ここで欲が出ます。動かせるようになると、もっと力をつけて、もっと多くの人を動かしたくなる。自分でも、そう思ってしまっているのがわかります。
でも、最近うっすら感じているのは、その「手に入れたもの」自体が、今の自分を縛りはじめているのかもしれない、ということです。翻訳機があるから、人を動かせるようになった。人を動かせてきたから、「自分の見え方は正しい」と思い込みやすくなる。もっもっとパワーをつければ、動かせないことなんてなくなるんじゃないかと思う。でもこれはとんでもない思い上がりです。役職が上がって、まわりが本音を言わなくなれば、なおさら裸の王様です。即答してしまうのも、相手のせいにしてしまうのも、1つの正解に決め切ってしまうのも、根っこをたどると、「せっかく手に入れた力を、手放したくない」というところに行き着く気がしています。
だとすると、次に大事なのは、力をもっと足すことではなく、握ったものを、必要なときに手放せるようになることなのかもしれません。自分の掴んだ答えに、自分でしがみつかないこと。これがいちばん難しい"やらない"です。
ここで誤解されたくないのは、これは「諦める」こととは違う、ということです。何も持っていない人間が、最初から力をつけずに「まあいいか」と手を引くのは、ただの諦めです。僕にとって血反吐を吐いて翻訳機を持つというのは大切なことでした。そうではなくて、一度しっかり握って、力をつけて、そのうえで「自分にできることには限界がある」と認める。翻訳機は万能ではないことを知る。足るを知る、という言葉が近い気がします。限界を認めることと、諦めることは、別ものです。自分が全部を動かそうとしないからこそ、目の前の人や仕事から手を引かずに、長く関わり続けられる。限界を認めたうえで、それでも諦めない。そういう手放し方を、僕は探しています。
正直に言うと、僕はまだここで足掻いている途中で、きれいな結論は出ていません。それでも、手放す方向に重心を移すことが、問いを長く持ち続けるための、最後の鍵なんだろうと思っています。
おわりに ― 答えはAIが、問いは人間が
最後にひとこと。
答えを出すこと自体は、これからどんどんAIが得意になっていきます。速く、正確に、大量に。僕が血を吐くようにして覚えた「翻訳」さえ、かなりの部分はAIのほうが上手にやれる時代です。皮肉な話ですが、これだけ苦労して手に入れた力も、しがみつくほどのものではなかった、ということかもしれません。だとしたら、僕たち人間に残る仕事は、「どんな問いを立てるか」と「その問いを、答えが出るまで抱え続けられるか」になっていくはずです。
良い問いは、放っておくと閉じます。時間で、他者で、論理で、そして、手にした力への執着で。直感で押し切る僕は、放っておけば誰よりも早く閉じてしまう。だからこそ、今日の3つを「やらない」と決めています。
やることを増やすのではなく、閉じる誘惑をやらない。それだけで、問いはずいぶん長く生きてくれます。
あなたが今抱えている、答えの出ない問い。それは、急いで閉じるにはもったいないものかもしれません。

