枠をはみ出して行動すれば、未来を変えるきっかけに出会える。Pythonのカンファレンス『PyCon JP』主催者インタビュー

エンジニアの世界は、技術を使うだけでなく、コミュニティやそれを盛り上げるカンファレンスなど、さまざまなつながりやきっかけに支えられています。カンファレンスなどのイベントが存在しなかったら、プログラミングの世界はここまで発展しなかったのではないでしょうか。

Pythonのカンファレンス「PyCon JP」を開催する非営利団体「PyCon JP Association」で、創業期から活動する寺田学さんに、その歴史や苦労話、活動に対する思いなどを伺いました。

プロフィール

寺田 学(てらだ まなぶ)
Python Web関係の業務を中心にコンサルティングや構築を手がけている。2010年から国内のPythonコミュニティに積極的に関連し、PyCon JPの開催に尽力した。2013年3月からは一般社団法人PyCon JP Association 理事を務める。その他のOSS関係コミュニティを主宰またはスタッフとして活動中。一般社団法人Pythonエンジニア育成推進協会顧問理事として、Pythonの教育に積極的に関連している。

海外のカンファレンスで偶然出会った4人でスタート

――2011年の1月にPyCon mini JPをスタートされていますが、どういう経緯で、日本でPythonのカンファレンスを開催することになったのでしょうか。

もともと、海外のカンファレンスに何度か行っており、その経験や出会いによって自分の成長を感じていました。並行して、仲間うちで、今でいう「もくもく会」「勉強会」みたいなものを毎月開催していたんです。

私自身は、2009年か2010年ごろにPythonをユーザーとして使っていました。当時、Pythonはマイナーな言語で、小さなコミュニティの中で学んでいたところ。Pythonのイベントも東京で少しずつ開催されていたと記憶しています。

そんな中、アメリカで始まったPyCon(Python Conference)が、アジアで初めて、シンガポールで開かれると聞いたんです。周囲からの後押しもあり、「PyCon APAC in Singapore」へ参加することにしました。そこで出会った日本から参加した私を含めた4人が、PyCon JPの始まりだったんです。

イベントで出会ったのは、日本人だけではありません。Pythonを開発した非営利団体Python Software FoundationのトップであるSteve Holdenさんと知り合うことができたのです。彼はイベントの後日本に立ち寄り、日本のコミュニティと話がしたいと言ってくれたため、10人ほどの有志と会食の場を設けました。「日本でもPyConを開催しないか」という話になり、許可が不要であるという情報も得て、やってみよう、となったのです。

最初は「mini」からスタート。その後、本格的なPyCon JPの開催へ

――その後は、スムーズに第1回目の開催へ至ったのでしょうか。

2011年1月にPyCon mini JPを開催したときは、私自身はサブ代表のような立場。もともとカンファレンスにいいイメージがありましたし、学園祭などが大好きなタイプだったので、周囲の勧めもありやってみることにしたのです。

知らないことが多く苦労もありましたが、熱意のあるメンバーが集まったのがよかったですね。10人ほどのメンバーを中心に、それ以外では25人ほどに手伝ってもらって実現しました。海外のカンファレンスで見てきたことを取り入れたり、日本としてのアレンジを考えたりしました。

私たちの活動団体が会社ではなくコミュニティであり、Pythonがオープンソースのソフトウェアであったこともあり、Pythonらしくオープンに合意形成をするよう心掛けました。みんなの想いが強いので、その分だけ合意形成は大変でした。喧嘩になるほどではありませんが、白熱した激論になることはよくありましたね。

本格的なPyConとなると集客に不安があったので、料金は低く設定しました。また、最初から英語のトークを並べたり、英語のアナウンスを取り入れたりしたのは、いずれは海外に飛び出して、国際的なイベントにしたい、という願いが多くのメンバーにあったから。それがいまに続いており、海外からもスピーカーの応募があります。

アジア版のPyConを日本で開催

――その後は、順調に毎年開催するようになったのですか。その後の転換期はありましたか。

2011、2012年とPyCon JPを開催しました。その後の大きな動きは、PyCon APACの開催です。私たちが参加したPyCon APACは、3年連続シンガポールで開催されていました。その代表であるLiew Beng KeatさんがPyCon JP 2012にいらして、2013年は日本で開催してほしいと言うんです。

PyCon JP 2012 集合写真(CC-BY PyCon JP)

チーム内では「まだ早いんじゃないか」「英語力に問題がある」「翌年も日本の開催になるのではないか」と反対する人たちが少なくありませんでした。ただ、翌年は台湾で開催すると聞いたので、懸念点は1つなくなった。「大変そうだけど、やってみるか」とトライする運びになりました。

苦労したのは、想像通り英語でした。メンバーの中で英語が堪能なのは数名なのに、アジアに向けて英語でスピーカー募集をして、すべてに英語アナウンスを入れなくてはなりません。さらには、前年まで開催していたシンガポールからのサポートや情報を得るために、シンガポール側と英語でのやり取りが必要になります。

ただ、困った時には協力者が現れるんですね。英語が得意な方で、エンジニアの方や、エンジニアに接点のある方がたくさん協力を願い出てくれました。日本語ができない方もいて、会議の途中で英語や中国語が飛び交う様子には面喰いましたが、今はいい思い出です。

PyCon JPとして法人化し、拡大期へ

――その後も、順調に規模を拡大していったのでしょうか。

そうですね。大きな出来事のひとつは、法人化です。最初は任意団体だったので、スポンサーやチケット代などでお金が集まり、規模が大きくなると管理が難しくなります。また、400人規模のイベントになると会場の確保が難しくなり、必然的に法人化することになりました。「PyCon JPを継続していく」という思いがより強まったと思います。

このころから、アジアでコミュニティ形成ができるようになってきたのも大きな進歩です。これは、PyCon APACを日本で開催した際に、日本とシンガポール、台湾の3者でパネルディスカッションを開いたのがきっかけ。参加者には韓国や香港の方たちもおり、のちのPyCon APACチームに繋がったのだと思っています。

2014~2016年ごろは、拡大局面に入ったと思います。Python自体がデータ分析やAIに積極的に活用されるようになり、日本だけでなく世界的にもユーザーが増えていきました。年に一度のPyCon JPのイベントが、「イベントを目指して活動する」という目標のようになっていきました。同時に、大きな会場が見つけにくく、苦労した時期でもあります。

PyCon JP 2016 集合写真(CC-BY PyCon JP)

コロナ禍はオンラインやハイブリッドで乗り切った

――コロナ禍やコロナ後は、イベントや活動内容にどのような変化がありましたか?

コロナ禍では先が見えない中、イベントの形式に迷いました。押さえていた会場をキャンセルしたり、イベント自体ができないことも。それでも、2020年はオンライン開催、2021年はオンラインとリアルのハイブリッド、2022年からはマスク着用の上、現地開催となりました。

コロナ後だからというわけではないかもしれませんが、今の課題は、若い方にカンファレンスの楽しみ方が伝わっていないこと。情報の伝え方に悩んでいます。チケットが売り切れた頃とは規模も環境も違うので本当の原因はわかりませんが、「わざわざ行かなくてもいいんじゃない?」という雰囲気があるのかもしれません。若い人たちにきてもらいたいからと、パーティ込みのイベントにしたり、学生やU25の方々のチケットを安く設定したりしています。

カンファレンスに参加する楽しさは、知らない世界に飛び込むようなもの。抵抗があるかもしれませんが、若い方の参加が減っているのは残念です。私自身は、コロナ禍を経たことで、人間関係を作り、深めるのは直接会うことが必要だと再認識しています。

身近な例では、エンジニアの方が5月に開催されるアメリカのPyCon USに行き、チャンスをつかんできました。彼にはやりたいことがあったため、そのイベントで初めて会った人と話し、7月にはヨーロッパへ足を運んで開発者に直談判。その結果、一緒に作業をさせてもらえることになりました。もともとグローバルに活躍している方だったので、つてをたどっても実現できたかもしれませんが、オンラインでは半年放置されてもおかしくない。実際に会うことで、信頼が高まり、険しい道もスピード感を持ってこじ開けることができた。翌年のリリースに向けたプロジェクトだったため、半年後では遅かったんです。足を運んでリアルであったからこそ、実現したのでしょう。

私自身、海外のカンファレンスに参加して生で聴き、体験する経験をしてきて、その重みは、オンラインとは比較にならないと思っています。また、人間関係が作れるのが大きなメリット。オンラインにも、もちろん便利でいいことはありますが、現地に行けば関係性も作れるかもしれません。

イベント開催以外にチャリティーイベントや地方への普及活動、支援なども

――「PyCon JP」の開催以外にはどのような活動をされているのでしょうか。

活動しているスタッフは、法人の理事が6人と、運営メンバーが10~11人、イベント側に30人ほどの主催メンバーがおり、そのほかに都度募集をしています。非営利団体なので、収入はすべて預かったお金。スタッフは基本的にはすべて無給で活動しており、預かったお金を有益に使うことがミッションだと思っています。

活動には海外向けと国内向けがあります。過去には、交通費を負担して海外のPyConにスタッフを派遣していました。現在は、初めて行こうとしている人に対して、同行するという支援をしています。最初は不安だし、慣れないと飛行機の手配も大変で、現地では言葉の壁もある。私たちと一緒なら、安心して参加し、楽しめると考えています。

アメリカ開催のPyCon USでは、PyCon APACとして、日本のメンバーが主体となってブースづくりをしました。そこで、Python Software Foundationとの連携を深めています。

そのPython Software Foundationが、PyCon USを中止したことがありました。そのために活動予算が不足していると聞き、私たちがトークイベントをオンライン開催を数回行い参加費を集め、売上をPython Software Foundationに寄付しました。200~250万円ほどの寄付ができ、当時の理事5名がPSF Community Service Awardsという、重みのあるアワードをいただきました。

国内では、地方への活動をしています。イベント開催地が東京なので、地方に情報が届きにくい。そこで、2016年から、各地のブートキャンプへ講師派遣や、ノウハウの支援などをしています。現地スタッフがマストなので、現地からの立候補を待っている状況ですが、年に5か所ほど開催しています。ブートキャンプをきっかけに、九州や香川、静岡にPythonのコミュニティができています。

地方だけでなく、女性向けの団体PyLadies Tokyoの支援もあります。Python Software Foundationを母体としてサンフランシスコで活動しているPyLadiesの東京支部で、活動予算や交通費の面で支援しています。日本ではまだカンファレンスへの参加率が低いので、高めるためにいろいろ協力していきたいです。

最近スタートしたのは、PyCon JP TVというYouTube Live。情報を伝えるのと、私自身が勉強の機会が欲しい、という動機です。だいたい、月初の金曜日に開催しています。

東京だけでなく地方での開催を目指し、海外への進出も

――ここまで熱量と時間を注いで活動するのは、どんな思いからですか。また、PyCon JP Associationとして、これからの活動を教えて下さい。

継続して活動するのは得意なので、それほど苦にはなっていません。むしろ、辞める決断のほうが難しい。活動を通して、仲間に会えて、協力して、さまざまな発見ができます。会社経営とは違い、新しいチャレンジがしやすいのも楽しい理由です。Pythonという共通の概念を通して「Pythonic(Pythonらしさ)」という共感が持てる人たちと活動できることが歓びになっています。

これからは、PyCon JPの開催地を地方にしようと考えています。もともと、東京だけで開催することには違和感がありました。法人の設立当初に決めたミッションステートメントにも「毎年同じ時期に同じ場所で開催するだけでは足りない」と記載しています。

また、PyCon JP Associationとは別の組織になりますが、世界に向けて、アジアでPythonコミュニティを立ち上げようとしています。私自身は英語が得意なわけではなく、ミーティングなども大変です。でも、いつもの場所から飛び出して、知らない場所に飛び込み、新しいことを知り、その場所を好きになっていく。そういう活動が、とても大事なんだと思っています。

取材・執筆:栃尾江美