プログラミングに興味を持ってもらい、エンジニアを志す人を増やすこと。そして、IT業界におけるジェンダーギャップを解消すること。鳥井雪さんは、これらのテーマと真摯に向き合ってきました。
前職の株式会社万葉でプログラマーとして働きながら、Rails Girlsで参加者の学びをサポートするコーチとしても活動。他にも、『ルビィのぼうけん』や『Girls Who Code 女の子の未来をひらくプログラミング』の翻訳、『ユウと魔法のプログラミング・ノート』の執筆などを行ってきました。そして2024年10月に転職し、テクノロジー分野のジェンダーギャップ解消を目指すNPO法人Waffleのカリキュラム・マネジャーに就任したのです。
なぜ鳥井さんは、プログラミングの世界に足を踏み入れるきっかけを提供し続けてきたのでしょうか。そして、カリキュラム・マネジャーとして目指すものとは。
プログラミングの楽しさに触れる“機会”を増やしたい
――鳥井さんが、プログラミングの普及活動やプログラマーを増やすための活動に尽力されてきた理由からお聞きしたいです。
過去にFindy Engineer Labに寄稿した記事に書きましたが、私がプログラミングに触れたのは社会人になってからなんですよ。やってみるとすごく楽しくて、こんな素晴らしいものに触れる機会がない人がたくさんいるのはもったいないというのが、一番の動機でした。
さらに、Rails Girlsの活動に携わっていると、男女の経済格差とか女性が妊娠・出産によって働けなくなるとか、いろいろな社会問題がわかってきました。プログラミングができる女性が増えれば、これらの問題を少しでも減らすことができます。なるべく年齢が若いうちにプログラミングに触れれば、将来の目標としてエンジニアを志す人も増えるだろうと考えて、子どもを対象とした書籍の翻訳・執筆にも力を入れてきました。
――これまでの活動のなかで、印象に残る出来事はありますか?
Rails Girlsをきっかけとして、誰かがエンジニアの道を志してくれたときは、すごくうれしくなりました。Rails Girlsは「コミュニティとのつながり」を大事にしています。だからこそ、女性がプログラマーになるきっかけの場として、すごく効果的でした。
Rails Girlsはそもそも、仕事や私的な活動でRubyやRuby on Railsの経験があり、Rubyのコミュニティでも活動している人がコーチについてくれるんですね。そして、Rails Girlsのイベント後に継続的に開催される勉強会でもコーチの方々が来てくれて、参加者がRubyを学ぶことを支えるだけではなくRubyプログラマーの知り合いも紹介してくれます。イベントや勉強会に何度か参加するうちに、参加者が徐々にコミュニティの一員になる仕組みを作れました。
他にも、書籍関連の活動で印象深いことがたくさんあります。『ルビィのぼうけん』を翻訳する前までは、子どものプログラミング教育に関してそれほど知見があったわけではありませんでした。
けれど翻訳をする過程で、どうすれば子どもにわかりやすい表現になるだろうと一生懸命考えました。そして本を出版した後は、教育の現場にいる方々からプログラミング教育についての質問や相談をたくさんもらうようになったんです。そうした経験から、子どもにプログラミングを教える意義や、何を伝えるべきなのかをすごく考えるようになりました。
女性エンジニアの割合は増えた。けれど、まだまだ足りない
――Rails Girlsの活動が開始された2012年頃と現在を比べて、IT業界におけるジェンダーギャップはある程度解消されたでしょうか?
良くなっているのは間違いなくて、たとえば自分自身の実感としてあるのは、RubyKaigi参加者において女性の割合が大きくなっていることです。初期の頃は、女性がいるだけで「珍しいな」と感じるくらいだったのが、徐々に見慣れてきました。
RubyKaigi関連の話をすると、「イベントスペースに託児所を設けましょう」と発案したのは私でした。2016年からなんですが、当時はまだRuby系の大きなイベントで託児所を設置した実績はありませんでした。このイベントでの託児所運営の後くらいから、他のRuby系のイベントなどでも実施されるようになりました。
参考:鳥井さんの書いた「RubyKaigi 2016 託児室運営記録(技術カンファレンスにおける託児サービス提供について)」
でも、男女の比率が同じにならない限り、常に課題があると私は思っています。それから、女性エンジニアの数は確かに増えましたが、CTOとかVPoEなどのポジションになる女性はまだまだ少ないので、その点も課題です。
――鳥井さんが前職で働いていた万葉は、女性エンジニアが多い会社として有名でしたよね。同社の取り組みのどのような点が、プラスに作用していたのでしょうか?
万葉は「人間にはさまざまなライフステージがあるのだから、すべての人がすべての局面でより良く働き続けられるような方法を模索する」というスタンスの会社でした。子どもが生まれたならば産休や育休は必要ですし、それ以外にも家庭の事情で短時間しか働けなくなることもあります。そうしたテーマから目を背けずに、どうすればみんなが健康的に働き続けられるかを真摯に考えている会社でした。
それから、社員の社外活動を全面的に応援してくれたんですね。たとえば、『ルビィのぼうけん』の最初の翻訳は社内の人たちにもたくさんレビューしてもらいました。また、社長や副社長も女性でしたし、社内には家庭を持ちながら働いている方々がたくさんいました。
そうした人たちが背中を見せてくれていたのも、働きやすい環境の要因になっていました。退職はしましたが、今後もフェローという役割で万葉には携わり続けます。大好きな会社ですからね。
これまでの経験すべてが、カリキュラム・マネジャーの仕事に結び付く
――ここからは、NPO法人Waffleに転職された経緯を聞かせてください。
これまでは本業として万葉のプログラマーの仕事をして、それ以外の時間でプログラミングの普及・教育活動をしてきました。このやり方だと、どうしても活動量は限られてしまうんですね。でもだんだんと、自分の時間をもっとこうした活動のために使いたいと考えるようになりました。
Waffleはテクノロジー分野のジェンダーギャップを解消するために、プログラミングを教えるカリキュラムを提供しています。たとえば、中高生向けのコーディングワークショップや、大学生向けのコミュニティなどを運営しているんですよ。
カリキュラム・マネジャーはそのカリキュラムを作成・改善したり、講義をしてプログラミングを教えたりといった役割を担います。プログラマーやコーチング、書籍の翻訳・執筆などで培ってきたスキルを、すべて活かせる仕事です。
――まさに、鳥井さんだからこそ担える役割ですね。プログラマーからの転身ですが、コードを書く時間が少なくなることへの寂しさはありませんか?
もちろん、あります。プログラミングはずっと好きですからね。でも、キャリアのなかの目標を実現するために、何か別のことに取り組む時間が少なくなってしまうのは仕方がないと思います。幸いにも、世の中にはOSSという素晴らしい文化があるので、今後はOSSへのコントリビューションにも挑戦したいです。職業プログラマーとしてコードを書くことはなくなるかもしれませんが、OSSの世界には山ほどコードがありますから。
それに、これからはカリキュラム・マネジャーとしてプログラミング教育のためのコンテンツを作り続けていきます。初学者に向けて、プログラミングの楽しさを伝えられる理解のしやすいコンテンツを考える必要があるので、プログラミングの本質的な理解や技術のバリエーションは、いままで以上に求められていると感じます。
――この記事の読者のなかにも、マネジメント職を担うのでプログラミングの時間が少なくなるなど、役割の変化に伴ってこれまで自分がしていた仕事の割合が減る方もいるはずです。そうした方々に向けて、アドバイスはありますか?
私の場合、「カリキュラム・マネジャーに就いたから○○ができなくなりました」よりも先に「子どもが生まれたから○○ができなくなりました」がまずありました。たぶん、女性の方々はそういったケースが多いはずです。
でも、私の人生における経験の量がそれで減ったかといえばむしろ逆で、総量は増えているわけじゃないですか。いろいろな視点を持つことができたわけですから。子どもを持ったことで、すべての人が働きやすい職場作りとか、プログラミング教育への考えがすごく深まりました。その経験を踏まえて伝えたいのは「生き方や働き方が変わることで世界は広くなる」ということ。その広さを活かして次に何をしたいか、何ができるのかを考えていくのが良いです。
教育の現場はいつでも「教えてくれる人」を求めている
――カリキュラム・マネジャーとしての今後のビジョンはありますか?
プログラミングを始めたい人と、よりスキルアップしたい人の両方がいるので、どちらのサポートもできるようになりたいです。それから、「他の女性エンジニアの方々がこの業界でどのように働いているか知りたい」という人も多いので、人と人とをつなげるとか、誰かの生き方を誰かに伝えるといった活動に取り組んでいきます。
女性がプログラミングを学ぶうえで一番のハードルになっているのは、おそらくメンターや仲間がいないことなのかなと思います。プログラマーとして働く同性のメンターか仲間のどちらかがいると、困ったときや気持ちが折れそうなときに、助け合うことができます。
この2つのどちらかは、初学者が挫折せずにプログラミングを続けていくうえで必要なことです。でも、どういった領域を学ぶ場合でも、きっと同じですよね。一緒に努力してくれる人とか、自分の助けになってくれる人がいれば、がんばり続けられます。
――今回の記事を「自分自身もプログラミングを教えて、誰かの力になりたい」という思いを持った人に届けたいです。そういった方々に向けて、メッセージをお願いできますか?
世の中には、Rails GirlsやCoderDojoのように、すでに誰かが運営してくれているプログラミング教育の場がいくつもあります。そういった場では、教える側の人たちが常に足りていません。ご自身の持っているプログラミングの知識やプログラマーとしての経験を大事な資産だと考えて、その資産をどうやって他の人に渡すのかを気に留めながら、教育に携わってほしいです。
オフラインでもいいですし、オンラインでもいい。口頭で教えるのが苦手であれば教育用のコンテンツを作る側に回ってもよくて、ご自身に適したやり方を探してみるのをお勧めします。これは私自身の実体験ですが、誰かに何かを受け渡すつもりで教育の場に足を運ぶと、逆に相手からものすごく元気をもらえますよ。その楽しさを、ぜひ味わってください。
あと、最後にこれはメッセージではなく自分の意気込みですが、初学者がRubyを学べる環境をさらに整えたいです。たとえば、Rubyについて勉強できるWebサイトを作るとか。Rubyは読みやすく書きやすい言語なので、入門用としてすごく適しています。「Rubyからプログラミングを始めてもらうぞ!」という強い気持ちがありますね。
取材・執筆:中薗昴
撮影:山辺恵美子