高学歴ワーキングプアから始まったITエンジニアのキャリア。ひと回りして再発見したクライアントワークの可能性

はじめまして。久松剛@makaibitoと申します。
20代には大学教員を目指し、その後のキャリアはSIer、自社サービスのSREやエンジニアリクルーターを経て、現在はオフショア拠点のエンジニアリングマネージャー、プロジェクトマネージャー、DX・組織改善コンサルタントなどを中心に従事しています。

この記事では、SIerから自社サービスを経て、再度クライアントワークへと戻った経緯を中心に、自身のキャリアについての考え方や、社会課題への取り組みについてお話しします。 現在はIT企業のみならず、製造業やコンサル企業でもITエンジニアの力を必要としています。そのタイミングで立ち返ったクライアントワークには、大きな刺激と魅力がありました。

問題解決発見型のキャンパスでアカデミックを目指した20代

私がIT業界に足を踏み入れたのは、大学に入学した2000年のことでした。立花隆氏に憧れて彼のような物書きになりたいと門を叩いたのが、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)。当時のSFCは「問題発見解決型」という理念を掲げていました。ただ実際に講義で一緒になる同級生を見渡すと、問題を発見するのはうまいけれど実際に解決しようとする人材は少なく、「評論家」や「問題発見他力本願型」が多いように感じていました。

一方、当時はIT革命の真っ只中。入学2日目に出会った「日本のインターネットの父」である村井純教授とその周囲の優秀な諸先輩方と交流するようになり、インターネットをこれから作るんだと意気込む空気と共に「評論する前に評論される人になった方が格好いいな」と考えるようになり、学部一年生の夏には村井研究室に入りました。

最初に取り組んだのは、広帯域なリアルタイム動画転送でした。32Mbpsの帯域をRTP(Real-Time Transfer Protocol)で消費するそれは、ネットワークオペレーションの経験にもなりました。一時期は、首相官邸や「愛・地球博」を中心とする大型中継イベントでも利用されていましたが、やがて圧倒的に少ない帯域でハイビジョン画質が転送できるUstreamの登場で衰退することになりました。

研究職に挫折して、与えられた課題の解決手法をSIerで学ぶ

その後は、P2Pを絡めた研究にスイッチすることになり、何ら計算機資源が約束されない有象無象の集団下において広帯域伝送を最大化する網構築について研究していました。私の所属する研究グループでは国プロ(公的資金による委託型の研究開発プロジェクト)の採択などあったものの、リーマン・ショック、事業仕分け、震災と予算が減っていく流れを感じていました。

一方で、博士課程在学中から時折、個人で受託開発もしていました。2000年代中盤はまだ世間にWebプログラマが少なく、個人宛にそこそこ大きな開発の依頼が来ることもありました。ガラケー全盛時代で、デコメールや絵文字変換、アフィリエイト対応したメルマガスタンドを作ったり、抽選システムを作ったこともありました。

そして博士最後の年には予算がなくなり、国プロも修了前に終わってしまったため、日銭を稼ぐためSIerでアルバイトするようになりました。正社員が3名で、10名程度のアルバイトプログラマが主力にもかかわらず、国立機関や大学研究室といった大手からプライム案件を請け負っている不思議なSIerでした。

それまで研究でも受託でもスタンドプレイが必要で、設計書類もドキュメントもあまりない自由度の高い開発ばかりでしたが、そのSIerで初めてチーム開発としての受託制作を経験しました。要件定義、画面設計、詳細設計、テスト仕様書といった大型でウォーターフォールなシステム開発におけるお作法と初めて向き合うことで、顧客が求めているものに対してリレー形式で、かつチームで問題解決に取り組むやり方を知りました。

リクルーターを兼任しサービスを両面から言語化する

内々で決まっていたポスドクのポジションが予算等の都合で無期延期となり、額面月15万円の文字通り高学歴ワーキングプアとなるのが決定的になったのが、博士取得直前の2012年2月末でした。この前後だけで短編が書けてしまうのですが今回のテーマとは違うので置いておきましょう。

アルバイトプログラマと並行した数カ月の就職活動を経て、当時はまだ民意を得ていなかったマッチングサービスへジョインすることになります。

「このサービスをなんとかしてほしい」

この副社長からの一言で入社を決めました。当時はプログラムにもインフラにも問題を抱えていたシステムでしたので、その立て直しがメインのミッションとなりました。オーバードクターと高学歴ワーキングプアの末、30歳の出来事でした。

今でこそ30歳未経験エンジニアが就職するとなるとたいへんな労力が必要ですが、当時のマッチングサービスはガラケー時代のいわゆる出会い系との差別化もこれからという状況でした。

そのため現在で言うSREのような活動をしつつ、入社翌月からリクルーターを担当することにもなりました。社会的に健全な市場の確立をしなければ、サービスの成長も社員の採用も難しい時代でしたが、最終的には20数名のエンジニア組織を作ることができました。

リクルーターは求職者だけでなく、紹介会社の方々にもサービスの魅力などをプレゼンテーションすることになります。そうした経験を通して、サービスのビジョンやポジションを言語化する機会に恵まれたことで、その後に生きる多くの学びがありました。

また、エンジニアであってもサービス改善について意見が求められる環境だったことから、マーケティングや企画の担当者が挙げてくる施策に対して、エンジニア視点で意見する日々を送りました。これによって、サービス志向とは何かということに向き合うことができました。

「エンジニアはどこから来てどこへ行くのか?」という課題

マッチングサービスで上場という節目を越え、次のキャリアを探していたところ、懇意にしていた人材紹介会社の事業責任者からお声がけいただき転職しました。

SREか情シスの路線でキャリアを考えていましたが、そこで提示されたのは、今で言うエンジニアリングマネージャーをメインミッションとする開発部部長と、エンジニアのキャリアパスに寄り添うエンジニア紹介事業メンバーの教育担当の兼任でした。

開発部の部長としてのミッションは、エンジニア組織のグロースでした。退職による人材流出を鈍化させるとともに、自社のウリ文句を定義しました。そのウリ文句をベースに、市場感を鑑みて採用像を再定義しました。部内において採用を自分ごと化できたこともあり、周囲の協力を得ながら、40名だった開発組織を退職者を伴いながらも80名にすることができました。

教育担当としては、自分自身がキャリアに大きく躓(つまず)いた経験があり、苦戦したエンジニア採用を工夫と考察で乗り越えていった業務体験から、その後のライフワークとなる「エンジニアはどこから来てどこへ行くのか?」というキャリアに関する課題に出会いました。

さまざまな世代で複雑化するエンジニアキャリアをめぐる環境

エンジニアのキャリアに関しては、下記のように世代全般にわたってそれぞれに課題があることが、人材紹介事業での活動を通して見えてきました。

未経験エンジニア
2017年以前は「自らお金を出してまでプログラミングを学ぶなんて意識が高い」と称賛されていたプログラミングスクール卒業生ですが、2018年後半から市場に溢れるようになりました。
フリーランスの増加
かつて企業における業務委託は「給与制度に当てはめると無理がある高度な人材」を迎え入れるものでした。それが今や若手エンジニアを中心にフリーランスになることが目的となってしまい、「未経験フリーランス」という言葉も誕生してしまうほどです。多くの方がフリーランスを志すことにより、結果として正社員採用も難しい状況につながっています。
中間管理職の不足
フリーランス化が止まらない今、リーダーシップやマネージャーに興味がある人は激減しています。正社員ですらない人が溢れると、見えてきた課題は「中間管理職不足」です。中間管理職が居なければフリーランスのマネージメントもままならず、負のスパイラルに突入しています。
ミドル層のスキル更新
かつては35歳転職限界説などが囁(ささや)かれていましたが、今では一部企業に残るのみとなりました。その一方で、終身雇用を前提に組織設計をした大手企業を中心に、ミドル層(45歳以上)のスキル更新が課題となっています。キャリアの棚卸しやリラーニングが課題となっています。
高度人材の活用
学術(アカデミア)の博士人材や、有期契約の大学教員人材の課題です。アカデミアとビジネスではキャリア構築の方式が違い過ぎるため、互換性がありません。有期のプロジェクトや教職で食いつなぎ、なれるかどうか分からないテニュアトラックを目指します。無期雇用が達成されたら、今度は少子化の兼ね合いで所属大学が定年まで存続することを祈らなければなりません。こういった歪みを解決する橋渡しとしての使命感を私は抱いています。

ここにAIブームがあり、コロナ禍を経て業務効率化も叫ばれるようになって、ITエンジニアを巡る環境はさらに複雑化しています。DX(Digital transformation)を試みる製造業のITエンジニア採用や、同じくDXを狙ったコンサル企業によるITエンジニアの積極採用が激化しています。

こういった課題の奥には「少子化」が横たわっています。エンジニア採用をテーマにしたセミナーを実施したりしていましたが、年々「経験者正社員エンジニア採用」は難しくなり、レアメタルの奪い合いのような様相を呈しています。

上流から提案することで顧客の課題に寄り添う

そうこうしているうちに出会ったのが、現職である株式会社LIGでした。おもしろブログのイメージが強かったのですが、実は売上としては準委任のクライアントワークが柱になっています。

クライアントワークと言うと、世間的には若手を中心に次のような不思議な図式があるようです。

フリーランス >>> 自社サービス >>> SIer > SES

しかし、私自身8年ぶりにクライアントワークに帰ってきましたが、この「顧客の数だけ課題がある」という状況は、自社サービスにはない刺激があります。

クライアントワークを成功させるために意識すること

クライアントワークにおいて社内で意識していることは、顧客との座組です。下請けの立ち位置になると、どうしても課題解決から遠くなり「作業」になります。どんなに課題が見えていても、対等な座組に入っていなければ、解決できるかという点ではあまり効果がありませんし、何より、情報の流量が違ってしまいます。

お客様によってメニューはフルカスタマイズするのですが、コンサルタントによる課題定義、プロジェクトマネージャーによるプロジェクト整理、デザイン、開発、テスト、運用まで、この一通りを日本の社員とフィリピンの開発拠点が手を取り合ってプロジェクト推進しています。これを、顧客と同じ座組で開発するという意味でBiTT(Build Team Together)開発と呼んでいます。

海外拠点については、前職までに6つほど経験がありますが、成功率は30%くらいで「安いには理由がある」というイメージでした。しかしLIGに入ってフィリピン社員のプロフィールを見ると、ほぼ全員が情報系の学位を持っていたり、有名企業のフィリピン拠点出身者だったりします。今の日本でこのクラスを採用するとなるとどうなるのだろう? と思ったとき、日本を憂う目眩とともに、強い可能性を感じました。

このように座組を意識したクライアントワークと、少子化とは縁遠い海外の優秀なエンジニアの2つを通した課題解決は、自社サービスとは違った魅力に感じられています。

現在、そしてこれから取り組みたい課題

これからのITエンジニア採用シーンは、未知の採用難を迎えつつあります。今後は人材の再配置や、永続的な学習ループの構築によるエンジニアキャリアの延長などを実現していく必要があるでしょう。

こうした不確実要素の高い社会において、エンジニア組織を構築することは容易ではありません。しかしそこには、かつてP2Pノード探索や網構築の研究で培った、不揃いで不確実なノードが集まった際のパフォーマンスの最大化というキーワードが重なって見えてきます。

さまざまなスキルを持った人が、さまざまな価値観をもとに、さまざまな働き方でプロジェクトに関わっていく。この極まった多様性の中で、いかに事業を推進する陣形を組み、パフォーマンスを最大化するか、それがこれからの開発組織の課題でしょう。数ある顧客のカタチに対し、さまざまなリソースを提供してフィットさせていく。そんなクライアントワークが今の私の研究フィールドです。

このように流れの速いIT人材の状況を記録しておきたいと思い、2020年から週に一本のペースでnoteをまとめ始めました。ITエンジニアが何を思い、どこから来てどこへ行くのか。数多くのエンジニアと向き合ってきた20年を振返り、言語化していく作業です。採用や転職だけでなく、視座や評価、退職といったさまざま角度から、人の流れについて記述しています。

編集:はてな編集部