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実は、はじめは「RubyKaigi」という名前ではなかった ─ 創始者と貢献者たちが、歴史を赤裸々に話します

2006年からほぼ毎年、日本で開催されているオブジェクト指向スクリプト言語Rubyに関するイベント「RubyKaigi」。 世界中のRubyistにとって“祭り”と言えるような一大イベントですが、この「RubyKaigi」が発足した経緯や、過去から現在までの歴史をみなさんはご存知でしょうか。

今回は「RubyKaigi」の創始メンバーのひとりである荻野淳也さんと、第1回の「RubyKaigi 2006」から運営に携わっている角谷信太郎さん、「RubyKaigi 2015」からチーフオーガナイザーを務めている松田明さんにインタビュー。イベントの歴史を語っていただきました。

「RubyKaigi」が産声をあげるまで

――そもそもの発端として「RubyKaigi」を立ち上げた経緯を教えてください。

荻野:過去から歴史をたどると、最初、「RubyConf」が2001年にアメリカで開催されたんですよ。参加者は全体で35人くらいで、そこに日本人が3人いました。まつもと(ゆきひろ)さんと青木(峰郎)さん、高橋(征義)さん。

角谷:青木さんが、ruby-listという日本のRubyコミュニティのメーリングリストにカンファレンスの内容を紹介するメールを送っていて、その末尾に「日本でもこんなカンファレンスをやりたいです」という旨のことを書かれていました。

高橋さんと「日本でもこういう感じのRuby Conferenceをやりたいねえ」という話もしてて、やるとしたら次のゴールデンウィークあたりがいいかな? と考えてます。
当時のメール文面より引用

角谷:でも、そこから日本国内でRuby単独のカンファレンスはできていなかったんですよね。

荻野:毎年、誰かが「やるよ」とは言っているけれど、なかなか行動に移す人がいませんでした。

――その流れが変わったきっかけは何ですか?

荻野:Ruby on Railsの登場により、爆発的にRubyユーザーが増えたことですかね。順を追って話すと、Ruby on Railsが登場した年である2004年の「RubyConf」は、まつもとさんが登壇しない回でした。海外開催でしたが、お子さんが生まれる直前で、さすがに日本を離れられなくて。そこで、まつもとさんに代わる目玉ゲストとして選ばれたのが、Objective-Cの設計者であるBrad Coxでした。

高橋さんと笹田(耕一)さんが「まつもとさんがいないから、日本人参加者は私たち2人だけで寂しい」と嘆いていたから、Brad Coxの講演を見たいと私もついていったんですよね。その「RubyConf」内で、DHH(David Heinemeier Hansson)がRuby on Railsについて発表したんですよ。でも、当時の私はその講演を生で見て「プレゼンはすごくうまいけれど、機能的にはまだまだだなあ」と冷めた見方をしていました。

荻野淳也さん(写真右)

角谷:るびま(Rubyist Magazine)に2004年の「RubyConf」のレポートがあって、荻野さんがDHHの講演の説明文を書いているんですけど、確かに記載内容が薄いんですよ。荻野さんがもっと丁寧に解説を書いてくれていたら、日本でのRuby on Railsの普及がもっと早くなったかもしれない(笑)。

荻野:私は当時、WebObjectsという別のWebフレームワークのエバンジェリスト活動をやっていたんですよ。そのフレームワークが自分にとって理想だと思っていて、だからこそRuby on Railsに対して厳しい見方をしてしまって(笑)。ですが、2004年の「RubyConf」の数か月後くらいから、世界でRuby on Railsが爆発的に流行り始めました。

Rubyユーザーが世界的に増えた結果、サンディエゴで開催された翌2005年の「RubyConf」は、参加者が200人くらいに増えていました。日本人の参加者は14人おり、そろそろ本腰を入れて、日本でRubyのイベントを開催しようという機運が高まってきました。そこで、高橋さんが「2006年6月に実施する」と宣言したんですよね。

イベントの創始メンバーは、高橋さんと笹田さん、そして私の3名です。高橋さんがイベントの顔でありまとめ役、笹田さんがRubyを作っている立場としてアドバイスや行動をする役割、私が会場やチケットの手配・準備をする役割でした。

角谷:高橋さんがイベント開催を決めたことを、当時の私は卜部(昌平)さんの「mputの日記」というウェブ日記で知りました。「おお、やるんだ!」と思いましたね。

「RubyKaigi」という名前は、あくまで通称だった

松田:「RubyKaigi」というフレーズを最初に思いついたのは誰ですか?

荻野:それは私なんですが、誰でも思いつくようなフレーズではありますよね。高橋さんが決めた名前は「日本Rubyカンファレンス」で、当時はそれが正式名称でした。あくまで、「RubyKaigi」は通称という立ち位置でしたね。ただ、「RubyKaigi」というフレーズの浸透力は絶大で、2006年の時点ですでにスタッフ内では「RubyKaigi」としか呼ばれなくなっていた気がします。

「日本Rubyカンファレンス」を学会っぽい雰囲気のイベントにしたかったので、知見のある江渡(浩一郎)さんに私や笹田さんが話を聞きに行って。さらに、江渡さんのつてをたどって、産業技術総合研究所の日本科学未来館を借りられることになりました。角谷さんは、イベント運営にいつ頃から参画したんだっけ?

角谷:私は「Rubyの単独カンファレンスが開催されるならば絶対に手伝いたい!」と思ったのですが、当時はまだRuby界隈の人たちとはそんなにつながりもなくて、どうしたら手伝えるのかわかりませんでした。

その頃、「Developers Summit」に「日本Rubyの会」がブースを出していて、笹田さんがブース番をしながらノートPCでYARVを開発していました。私は笹田さんの隣に座って「角谷と言います。私は技術イベントの運営に携わったことがあるので、何かの形で『日本Rubyカンファレンス』を手伝わせてもらえませんか?」としつこく話しかけ続けたんです。すると、運営準備用のメーリングリストに追加してもらえました。

角谷信太郎さん(写真左)

――正式にイベント名が「RubyKaigi」になり、「rubykaigi.org」のドメインも取ったのはいつくらいの時期ですか?

荻野:まず、2007年から正式名称が「日本Ruby会議」になりました。ドメイン取得も同じ年だったかな。その後、「RubyKaigi」が正式名称になったのは2013年からですね。

角谷:ドメインはyuguiさんがいつの間にか取ってくれていたんですよ。スパマーなどに取られたら困るから。その経緯はyuguiさんの「rubykaigi.orgの歴史」というブログ記事に書かれていますね。

イベント休止。そして再始動

――その後、2010年のClosing(閉会の辞)にて、2011年の開催をもって「RubyKaigi」を終了することが宣言されたと伺っています。この経緯をお聞かせください。

荻野:終了を決めたのは高橋さんでした。しかし、やめにすると言う前から「これからも続けていくのは無理だろう」という雰囲気は漂っていたんですよね。スタッフが手弁当で集まって各々の理想を詰め込んでいくので、回を重ねるごとに、参加人数やイベント規模、クオリティがどんどん向上していって、えらく大変になっていました。

角谷:2010年ごろは運営の規模も50〜60人くらいになり、徐々に高橋さんも全体像を把握しきれなくなっていました。それに、高橋さんは「『RubyKaigi』でやりたいことをだいたいやりきった気がする」とも考えていたそうで、それで終わりにすることを宣言したんだと思います。でも宣言された直後、私は信じていなかったんです。「えっ、本当に終わるんだ!」という感じでしたね。

――その後、1年間の休止を経て、2013年に再始動したそうですがその理由は?

角谷:私がやろうと決めたからですね。経緯を話すと、2010年の「RubyWorld Conference」の基調講演で、まつもとさんが「RubyKaigi」の運営をねぎらってくれました。これが、ものすごく嬉しかったです。そのときに「(イベントを)継続することそのものにも価値はあると思うんだけどねえ」みたいな発言もされたと記憶しています。私は未練がましいので「そうですよね。まつもとさんも同じ気持ちですよねえ」と思っていました。

その年の「RubyWorld Conference」ではChad Fowlerが基調講演のために来日していて、彼にも「どうして『RubyKaigi』をやめてしまうの? お金の問題か? 嫌なことでもあったのか?」と心配されました。

翌2011年に実際に「RubyKaigi」が終わってしまった後、秋に「RubyConf」に行ったら、北米のRubyistたちから「どうしてやめちゃったの?」と話しかけられました。2012年の春にアムステルダムで開催された「Euruko」でも、同じように声をかけられて。「RubyKaigi」をすごく大切に思ってくれているRubyistが、世界中にたくさんいると実感しました。

さらに、「Euruko」の会場前にあった屋台だか自販機だかのコロッケ(クロケット)を、何故かまつもとさんがおごってくれたんです。そのときに「コロッケのお礼代わりに『RubyKaigi』をやってよ(笑)」と言われたんですよ。まつもとさんは半分冗談だったと思いますが、これは後に「アムスコロッケ買収事件」と呼ばれることになります(笑)。アムステルダムからの帰路はずっと「やはりこの世に『RubyKaigi』は必要なのでは?」と考え続けていて、最寄り駅に着いたときに「よしやるぞ!」と決めました

再始動するなら「RubyKaigi」をいつか「RubyConf」「Euruko」に並ぶ国際カンファレンスにしたいと思い、正式名称を「日本Ruby会議」ではなく「RubyKaigi」に変更して、イベントの第一公用語を英語にして。チームメンバーも、実行委員ではなくオーガナイザーという扱いにしました。

松田さんにはこのタイミングからオーガナイザーとして関わってもらうようになりました。松田さんは、英語も堪能だし海外のカンファレンスにも何度も一緒に参加していたので、国際カンファレンスを目指すならば、力を借して欲しいと思ったのでした。

そしてこれを、2011年に一般社団法人格を取得した「日本Rubyの会」の事業として取り組み、「今度はなんとしても継続させていくぞ」という意気込みで始めました。2013年の「RubyKaigi」をお台場で開催したのは、2006年にはじめてRuby単独イベントを開催した土地なので、再始動に最もふさわしいと思ったからです。

現・チーフオーガナイザーである松田さんにバトンタッチ

――その後、角谷さんから松田さんへ運営の主体が移った経緯は?

角谷:「RubyKaigi」は梅雨や真夏の時期に開催していたのですが、桜が咲く時期に動かしたいと思ったんです。花見ができるように、2014年・2015年は場所を江戸川区の船堀に固定して準備を進めていました。しかし、2014年のイベント準備のさなかに、私が体を壊してしまい活動できなくなりました。

松田:あの時は危なかったですね。イベント開催の1週間前くらいまで、角谷さんが音信不通になっていましたから。

松田明さん(写真左)

角谷:運営チームのみんなの頑張りのおかげで2014年の「RubyKaigi」はなんとか開催できたものの、運営の見通しが立たなくなり2015年の春の会場はキャンセルしました。2015年の「RubyKaigi」の実施は諦めるしかないと思っていたところ、松田さんが「ならば私がやります」と引き受けてくれたんですよね。

松田:あれだけ世界中で惜しまれて再開したイベントが、またすぐに終わるのはもったいないですからね。2015年の4月の時点で関係者全員が「今年は無理」と言っていて、「『RubyKaigi 2015』の中止のアナウンスをどうするかを話し合うミーティング」が開かれたんです。その話し合いの中で「誰もやらないんだったら、今年は私が実装します」と宣言しました。そして、なんとしても2015年のうちに開催したいと思い、大急ぎで築地の会場を見つけて、年内の12月にギリギリ間に合う形で開催しました。

余談ですが、築地ならば“寿司”だろうと思い、友人の赤塚(妙子)さんに「寿司をモチーフにした『RubyKaigi』のサイトを作ってほしい」と依頼したんですよ。すると、このデザインが上がってきました。このサイトを画面下部までスクロールすると回転寿司があって、通称「Sushi on Rails(レールに乗った寿司)」と呼ばれています(笑)。

このときの「勢いでちょっと悪ノリしちゃった感じ」が、それまでの真面目な雰囲気の「RubyKaigi」から路線が変わったところかもしれません。これ以外には「ドリンクアップ・スポンサー」とか「Ruby Karaoke」などを「RubyConf」から輸入して「RubyKaigi」に組み込むなどの取り組みも、この年あたりから始めました。そういった“お祭り感”を演出しているのが、私の代の「RubyKaigi」の特色ですね。

「RubyKaigi 2015」のサイトデザイン

地方開催、Takeout、そして再びの実地開催

角谷:緊急開催だった2015年は会場のキャパがギリギリだったので、2016年の開催場所は都内の大きめの会場をいくつか見に行きました。でも、松田さんはずっと「うーん」と言って、なかなか気に入るものが見つからなかったんだよね。

荻野:そうか。2016年は準備の時点ではまだ地方開催が前提じゃなかったんだ。

松田:はい。当時はまだ都内で検討していましたね。

角谷:松田さんと「都内で開催すると、朝はみんなが満員電車に乗って会場に足を運ぶことになる。会場費が高いわりに、体験としてはイマイチかもね」という話になりました。そこで、東京以外の場所も視野に入れ始めたので、2000年に「Perl/Ruby Conference」が開催された国立京都国際会館の空き状況を調べてみたところ、丁度良い時期に予約できることがわかったんです。

首都圏以外での開催で、みんなが来てくれるのか心配だったので、Rubyの開発者会議で松田さんからコミッターたちに聞いてもらいました。すると「いいじゃん」と良い返事をもらえたので「少なくともコミッターたちは来てくれそうだから、やってみましょう」となりました。

松田:まずは、まつもとさんに聞いたんですよね。まつもとさんは「むしろ、東京よりも京都のほうが、(住んでいる島根県松江市からの)距離が近いから嬉しい」と言ってくれたような記憶があります。

角谷:結果的に京都開催は大盛況で「みんな来てくれるんだな」という手応えもあったので、それ以降の『RubyKaigi』は松田さんが日本全国から会場を選定して開催する流れができていくわけですね。広島、仙台、福岡と続いていきます。

――松田さん運営体制下になってからの出来事として、2020年と2021年の「RubyKaigi Takeout」(コロナ禍に起因したオンラインでの開催)の話が欠かせないと思います。この運営で大変だった点はありますか?

松田2020年の「RubyKaigi」を、長野県松本市で夢にまで見た花見シーズンに開催する予定だったんですよ。松本城のお堀の横にある公園を借りて、花見をしながらの懇親会を予定していました。ですが、2020年の初頭くらいに、新型コロナウイルスがいよいよ危ないという状況になって。2月くらいまでは、リアルイベントも懇親会もまだ実施できていたんですよね。だからこそ、なんとか「RubyKaigi」をリアルでやりたいと思っていましたが、やはり無理だと撤退を決めたのが2020年3月の後半くらいでした。

荻野:その時点で、2021年の会場は三重に決まっていたんですよね。

松田:そうですね、三重の会場はもう予約済みでした。「RubyKaigi」のクロージングセッションで「来年はここでやります」とアナウンスするので、前年のうちに会場を予約しておくんですよ。

――ちなみに、なぜ三重を選んだのですか?

松田:2021年はRuby 3.0がリリースされた後の最初の「RubyKaigi」になる予定でした。そして、Ruby 3.0は「Ruby 3×3(Ruby 3はRuby 2の3倍速くする)」というスローガンを掲げていました。「3倍、つまり“三重”ですね」というダジャレを壇上で言うためだけに、三重に決めたんですよ。そして、津市にある会場を予約しました。

――嘘のような本当の話ですね(笑)。

松田:さらに余談を言うと、この話をしたところ笹田さんに「Ruby 3(スリー)なのに津(ツー)市なんですね」と即答されました。

――アハハハハハハ(笑)。

荻野:そして2021年の「RubyKaigi」も、結局はTakeout形式になりましたね。

角谷:2020年のときはギリギリまで粘ったんですが、2021年は当時の情勢を鑑みて「仕方がないね」と、早めにオンライン形式に決めてしまいました。

――そうした紆余曲折を経て、2022年はようやく三重県の津市で開催できたわけですが、やはり実地開催できたことは感慨深いですか?

松田:これは私の個人的な気持ちですが、オンライン開催やハイブリッド開催は、正直なところあまり気持ちが乗りませんでした。「RubyKaigi」に参加している感覚がなかったんですよね。東京を飛び出して、旅をしながらカンファレンスに参加するのが、やはり「RubyKaigi」の醍醐味だと思っています。

「RubyKaigi」“らしさ”が生まれたことが嬉しい

荻野:「RubyKaigi」の立ち上げ期に、「学会っぽくしたいから、地方都市を巡る形式にしよう」というコンセプトはすでに出ていました。でも、結局は実現できなかったんですよね。そういったコンセプトを松田さんが実現してくれているのが、私としても嬉しいです。

角谷:松田さんがチーフオーガナイザーになってから2回目くらいで、私が再始動したときに実現したかった「Rubyをより良くするような、Rubyコミュニティの国際テックカンファレンスの一番すごいやつを日本でやる」ことを実現させてくれました。現在の「RubyKaigi」には、私が見たかった“「RubyKaigi」らしさ”がギュッと詰まっています。

松田:“らしさ”が明確になった理由として、昔とは異なる要素がひとつあると私は思っています。それは何かというと「RubyKaigi」以外のRubyイベントが増えたんですよね。そもそも、「RubyKaigi」単体ではRubyについて発表したい人がすぐにあふれてしまったため、角谷さんが2008年に「地域Ruby会議」を始めてくれました。

つまり、すべての登壇者を「RubyKaigi」で巻き取るのではなく、より小規模で登竜門的な場として「地域Ruby会議」を開催する方針になりました。さらに、2009年に松江で「RubyWorld Conference」が始まって、ビジネス寄りのRubyの話はこのカンファレンスで話す流れができました。さらに、これは比較的最近の2020年からですが「Kaigi on Rails」ができて、Ruby on Railsの話はこちらでするようになりました。

つまり、他のカンファレンスが充実したことで「RubyKaigi」では「専門性の高いRubyの話」だけにフォーカスできるようになったんですよね。それもあって、本当に毎年「RubyKaigi」は最高のイベントになっている。Rubyコミッターたちが1年間の努力の成果を「RubyKaigi」で発表するという好循環が生まれています。

角谷:「RubyKaigi」じゃないとできないような発表がどんどん集まってますもんね。

松田:「RubyKaigi」は、やはりRubyを作っている人たち一人ひとりにスポットライトを当てたいんです。彼らに「今年はこれを頑張った」と、自分の言葉で発表してほしいですね。

インタビューは荻野氏がCTOを務める株式会社iCAREで実施しました。

「RubyKaigi」は重要な文化的財産

――お三方は今後どのような形で「RubyKaigi」に貢献したいですか?

松田:「RubyKaigi」は「自分が参加したいイベント」「自分にとって最高のイベント」を作っているだけなので、今後もそれを続けていきたいです。毎年「RubyKaigi」のタイムテーブルを組めた時点で、勝ちを確信しますよ。「今回も最高のイベントを生み出してしまった」と思います(笑)。まるで捨て曲がない音楽アルバムのような感じで、全てのセッションを見たい。それって、他の技術イベントではあり得ないんです。それくらい「RubyKaigi」のレベルは高いと思っています。

荻野:これから、チーフオーガナイザーの後継者を育てたいという思いはないんですか?

松田:今回、インタビューで話していて「自分と同じことをやってくれる跡継ぎを育てる必要は、もしかしたらないのかも」と思ったんですよ。つまり、現在の「RubyKaigi」は、私が私にとって最高だと思う形で運営しているんだけれど、次の世代の人がまた全く違うことをやってもいいのかなと思いました。初代と再始動後の「RubyKaigi」はそれぞれ特長が違うわけですからね。

角谷:私は「日本Rubyの会」の理事でもあるので、「RubyKaigi」が今後も続くように支援していきたいです。ただ、「RubyKaigi」は自分よりもずっと大きな存在だと感じていますし、松田さんからも「運営の細かい部分にはタッチせず見守っていてほしい」と言われているので、その塩梅は難しいですね(笑)。新しい人たちにも「RubyKaigi」の良さを伝えていけるといいのかな。

荻野:私がCTOを務めるiCAREが2022年の「RubyKaigi」のスポンサーになりましたが、会社としてより全面的にRubyを応援していきたいです。すごく印象的だったことなんですが、iCAREの若手のエンジニアを会場に連れて行くと「プログラミング言語を作っている人って本当にいるんですね」という感想を述べたんですよ。

一見すると普通の人のように見える方々が、実は凄まじいスキルのプログラマーだと知って驚いていました。そういう人たちがすごいものを作っているのを目の当たりにして、良い刺激を受けてイベントから帰ってくるのは良いですよね。

角谷:私は、Asakusa.rb本多(康夫)さんにインスパイアされて「362日のRubyist」とよく言っています。「RubyKaigi」ですごい発表をしている人たちの成果は、イベント以外の362日の間の取り組みがあってこそなんですよ。そんな人たちの晴れの舞台として「RubyKaigi」はあってほしいし、それを目撃した誰かの次の362日につながるといいなと思っています。

荻野:ひとつの文化的な財産ですよね、どのプログラミング言語にも、こんなに良いイベントがあるわけではないですから。2006年、3人でほそぼそと始めたイベントがいつの間にかこうなったのは感動しますよね。「あの『RubyKaigi』がこんなに大きくなって」と感じます。

――これからも「RubyKaigi」が未来永劫続いてほしいですね。2023年5月に、長野県松本市のまつもと市民芸術館で開催される「RubyKaigi 2023」も楽しみにしております。今回はありがとうございました!

取材・執筆:中薗昴
撮影:漆原未代
取材協力:株式会社iCARE