“CTOの仕事”だけでは足りない。元Googleエンジニア・樽石がイオンから挑む「失われた30年」を取り戻すための戦い

いわゆる「失われた30年」の間、日本経済は全体が停滞を続けてきました。そしてグローバル競争が激化するなか、日本企業の存在感はさらに薄れつつあります。日本は今、大きな岐路に立たされています。

そんななか、日本の失われた30年を取り戻すべく、奮闘しているエンジニアがいます。現在、イオンネクスト株式会社CTOを務める樽石将人(@taruishima)さん。エンジニアとしてのキャリアを外資系グローバル企業でスタートした樽石さんは、大手企業からスタートアップまで幅広い経験を持ち、現在は300年近い歴史を持つイオンのデジタルシフトを最前線で牽引しています。

しかし、お話を伺ったところ「CTOという立場だが、CTOではない仕事をしている」といいます。それはなぜなのか。背景を探った先には、樽石さんが“日本のIT人材に伝えたいメッセージ”がありました。

日本のデジタル化に貢献すべく、大企業での挑戦を選択

――イオンネクストに入社した背景を教えてください。

私は2022年3月に、イオン株式会社の子会社であるイオンネクスト株式会社に入社しています。ですが、最初に声をかけていただいたのは、その1年前。イオン株式会社のCTOにならないか、というお誘いでした。

当時、イオンは本気でデジタルシフトを進めようとしていました。しかし、家庭の事情もあり、一旦は辞退したんです。ところが、イオン側は諦めず、声をかけ続けてくれました。

CTOという責任ある立場と家庭との両立ができるかどうか心配でしたが、イオン側が柔軟な働き方に対応してくれたこともあり、子会社のイオンネクスト株式会社にCTOとして入社(イオン株式会社に入社し、イオンネクストに出向)することを決意しました。

――具体的には、CTOとしてどのような役割を期待されていたのでしょうか。

入社したとき、実は組織自体でCTOとしての明確な役割が定義されていなかったんです。私自身も、具体的な職務内容をよく理解していませんでした。

しかし、ひとつはっきりしていたことは、イオンネクストが開発していた、英・Ocado社の技術を活用した「Green Beans」というオンラインマーケットが、デジタル技術なしでは成立しないということ。そのため、デジタル技術が重要であるという認識は組織内で共有はされていました。

当時、イオンネクストには技術の専門家が1人もいなかったので、私が1人目の専門家の役員として入社しました。つまり、私に期待されていたのは、最初から存在している開発組織を率いることではなく、何をすべきかさえ定まっていない状況のなかで、組織を作り、巨大なデジタルサービスを立ち上げていくことでした。

――ゼロからのスタートだったのですね。

はい。例えて言うなら、引っ越しをしたときのように、必要なものは購入されていて、それがダンボールに入って山積みにされている状態。何をどこに置くのかわからない、とりあえず箱だけ大量にあって、「これからどうしましょう」というタイミングでした。

――イオンネクストのCTOになることで、自分自身を成長させることへの期待はありましたか。

自分の成長よりも、サービスの立ち上げに集中していましたね。約1年後に予定されていたGreen Beansのローンチに向けて、全力で取り組むことが優先事項でした。

私がイオンネクストへの入社を決意した最大の理由は、日本のデジタル化における課題解決に貢献したいという思いからでした。イオンは10兆円規模の売上高がある大企業です。ここでの成果は日本全体に大きな影響を与える可能性があります。前職のスタートアップでは成長率が著しく非常にやりがいのある活動でしたが、日本全体への影響を短時間で実現するには難しかったインパクトです。

正直、入社当初は小売やOcadoの技術について詳しくありませんでした。しかし、日本のデジタル化に大きく貢献できる可能性に使命感を感じ、挑戦しようと思ったんです。

――なるほど。イオンネクストでのチャレンジはあくまで手段なのですね。樽石さんは日本のデジタルの課題についてどのようにお考えだったのでしょうか。

コロナ禍で、行政分野のデジタル化の遅れが顕著になりました。接触確認アプリや給付金手続きなど、デジタル技術で迅速に対応できるはずの対策に不備が重なり、アナログな方法で苦心している様子が見られました。

この状況を受け、多くのIT人材がデジタル庁に集まりました。しかし、私は民間企業のデジタル化に注目したんです。民間企業のデジタル化も重要なのに、そちらに移る人材が少ないと感じたからです。

他に適任者がいればその人に任せ、自分にしかできない役割があればそこに身を置くというのが私のスタンス。イオンネクストの立ち上げ期は、技術面だけでなく組織づくりや業務設計など、幅広い課題がありました。だからこそ、私のキャリアにおける多様な経験が、この複雑な状況に適していると考えました。

結果として、すでに人材の集まっていたデジタル庁ではなく、民間企業での課題解決、特にイオンのような大規模な企業のデジタルシフトに参加することで、日本のデジタル化に貢献できると判断したのです。

CTOの役割を超えて、各部門の課題に一つひとつ向き合う

――イオンネクストにCTOとして入ってから、どのような課題に直面しましたか。

技術的に大きなチャレンジだったのは、タイトなスケジュールとの戦いです。2022年10月から本格的な開発を始め、翌年3月にひととおり完成させて本番テストを開始し、その3か月後に実際に本番稼働という急ピッチでした。

技術系以外では、マネジメントの課題がありました。イオンネクストは社内異動や中途採用のメンバーが多かったため、多様な背景を持つ人材を1つにまとめ、サービスを作り上げる必要があったんです。

――バラバラだったメンバーを1つの方向に向かわせるために、何か工夫したことはありますか。

2つの重要なポイントがありました。1つは「実物」、つまりドッグフーディングです。サービスの形が見えてきた段階で、社員に実際にGreen Beansを使ってもらい、具体的なイメージを共有しました。

もう1つは「データ」です。倉庫の在庫情報や会員(当時は社員)の購買履歴などのデータを公開し、誰でも見られるようにしました。また、BIツールを導入し、これらのデータを誰でも分析できるようにしました。

データを共有し分析できる環境を整えたことで、部門間の共通理解を深め、組織全体が同じ方向を向いて業務に取り組むことができるようになりましたね。

――ローンチ後はどのような取り組みをされてきたのでしょうか。

ローンチ後も多くの課題がありました。例えば、お店は開店したものの、お客さまが思うようにご来店されない、クーポンを配布したらトラックが足りなくなる、配送エリアが広すぎて配りきれないなど…。売上を上げ、会員を増やしていく必要があるなかで、グロースハック、つまり急成長のための取り組みが急務だったんです。

私はCTOとして、IT部門を管掌しています。組織構造上はIT部門だけを管理して、例えば、業務部門の要望を聞いて情報システムを作ります、ということだけやっていても一応問題はありません。

しかし、実際には他の部門にも深く関与し、さまざまな提案や改善活動を実施してきました。言わば、グロースハックのリーダーのような役割を担っています。

――グロースハックのリーダーとは、具体的にどのようなことをやっているのですか。

グロースハックリーダーとしての私の最大の役割は、データを活用して事業成長を加速させることです。全社にわたってデータ活用を推進し、データに基づく意思決定や改善サイクルの確立に取り組んでいます。

特に力を入れているのが、CTOの立場を超えた他部門との取り組みです。具体的には、配送戦略、商品管理、倉庫のオペレーションなど、他部門の課題解決に積極的に関与。各部門の定例会議に参加し、データ分析とその結果に基づいた対策の検討などを行っています。

――全ての部門に対して同じアプローチをしているのですか。

いいえ、部門によってアプローチを変えています。イオンネクスト内の各部門におけるデータ活用の取り組みは、当初は部門によって大きく異なっていました。そのため、私の役割は各部門の状況に応じて適切なアプローチを取り、全社的にデータドリブンな意思決定を促進することでした。

例えば、すでにデータドリブンな運営をしている部門に対しては、より高度な分析手法の導入や分析スピードの向上をサポートしました。配送部門では、統計処理に長けた部長と専門的な議論を交わしながら、より深い分析を共同で進めました。

一方、データ分析の知見が少ない部門に対しては、わかりやすいダッシュボードを用いて、データの可視化をサポートしました。こういった活動を通じて、データに基づく意思決定の重要性が社内に浸透したと思います。

――なぜCTOがそこまで幅広く関与する必要があったのでしょう。

会社の目標達成には、部門横断で業務を最適化する必要がありました。私が入社した大きな理由は日本のデジタル化の遅れを解消したいということです。つまり、IT部門だけを見ているだけでは不十分で、各部門の課題を総合的に解決していく必要があったのです。

最初は部長会などで各部門の話を聞き、コメントやフィードバックをするところから始めました。「このデータを調べてください」といった依頼を通じて、少しずつ各部門との信頼関係を築いていきました。

事業成長には、データを基にしたスピーディーな意思決定と行動は不可欠です。CTOである私が先頭に立ってこれを推進することで、全社的なデータ活用を加速させることができました。

これからの時代に必要なのは、技術を理解している経営者

――イオンのデジタルシフトの取り組みについて教えてください。

イオンは今年で上場50周年を迎えます。この50年間、さまざまな時代の潮流に乗りながら成長を続けてきました。実は、イオンの歴史は最初の岡田屋から数えると約300年にも及びます。この間、常に変革し続けてきたのがイオンの特徴です。

例えば、イオンの前身の会社は戦争中の空襲で店舗が焼失し、社員が10名まで減りましたが、岡田名誉会長が再起して今のイオンを作り上げました。まさにゼロから始めたベンチャー企業のような歴史があるのです。

1990年から2000年頃、イオンは食品の流通やイオンモールの展開など、実店舗のビジネスに注力していました。IT業界とは少し距離が遠く感じる時期もありましたが、2010年頃からデジタルへの本格的な投資を強化しています。

今後5年から10年で、2000年代初頭にモールが急成長したように、デジタル分野で大きく伸びていく可能性は十分にあります。そして、それを実現することが私の目標です。

――イオンのデジタル化を担うために、これからどのようなことをしていきたいですか?

イオンには次世代経営人材を育成するための社内大学のような仕組みがあります。イオングループは約300社あり、戦略的に人材を育成しているんです。私もその経営塾に参加し、会長から指導を受けたり、経営課題についてディスカッションしたりしています。

そのなかで寂しいと感じるのは、エンジニアの参加者が全くいないということ。これは大きな課題だと考えています。昨今のビジネスにおいては、技術への深い理解を持つ経営者が不可欠だからです。世界のリテール企業を見ても、ウォルマートやアマゾンのようにテックカンパニー化している。イオンもその方向に進む必要があると思うんです。

ですから、技術面でのリードだけでなく、イオンの規模の組織を引っ張っていく経営力も身につけ、イオンを本当の意味でのテックカンパニーに変革していきたいと考えています。会社経営においては、創業よりも守成のほうが難しいと言われます。企業の寿命は約30年と言われていますが、イオンがこの先も成長し続けるためには、このデジタルシフトを通じて絶えず生まれ変わっていく必要があります。これは、イオンにとって次の大きな変革になるでしょう。

IT人材にとって日本企業が魅力的な職場になるように

――グロースハックのリーダーの役割を担ってきた樽石さんですが、そういった活動を通じてどのようなビジョンを描いていますか。

私が今の活動を通じてやりたいことは、日本の「失われた30年」の次を「失われた40年」ではなく、「取り戻す10年」に変えることです。グローバルIT業界で20年ほど過ごしてきた私には「失われた」という感覚は全くありませんでしたが、日本全体は停滞が続いていたことに気づきました。

そこで、イオンの戦略DXスタートアップであるイオンネクストを通じて、日本に革新を起こしたいと考えています。まずは事業をしっかり成長させ、日本に活気を取り戻すことに貢献していきたいと思っています。

――具体的には、何をどのように変えていくのでしょう。

まず、イオンネクストの事業基盤を固めることから始めます。現在、ネットでの食品メインの販売という限られた領域で、しかも首都圏のみでの展開ですが、これを着実に成長させていきます。

同時に、イオン全体への波及効果を考えています。イオンネクストで培った技術やノウハウを、イオンの全国的な事業基盤に展開することで、より大きな社会的インパクトを与えられるでしょう。

イオンネクストはイオングループのデジタルシフトを牽引する存在です。イオンネクストへの投資額は膨大ですので、リターンも膨大でなければいけません。イオンネクストの革新的な取り組みをイオン全体に波及させることで、日本の小売業界に新たな価値を提供していきたいと考えています。それが、ゆくゆくは日本全体を盛り上げていくことにもつながるはずです。

――日本を盛り上げていくというお話がありましたが、具体的にどこを良くしていきたいと考えていますか。

難しい質問ですね。GDPなのか、あるいはWell-being(ウェルビーイング)なのか、生まれ変わったときにもう一度日本人でありたいと思うことなのか、何をもって「良くなった」とするのか、まだ答えは出ていません。ただ、1つ感じていることがあります。それはIT業界の状況です。

現在、IT業界では外資系企業、特にGAFAのような企業が著しく成長しています。多くのIT人材にとって、キャリアの最終目標はこうした外資系企業になっています。日本企業は、キャリアのスタート地点としては選ばれても、最終的な目標にはなっていないのが現状です。

私の目標は、この状況を逆転させることです。つまり、キャリアを積んでいく先に日本企業がしっかりと位置づけられるような状態をつくりたいと考えています。日本を出たいという人を増やすことではなく、日本に来たいと思う人を増やしていく。日本の企業が、IT人材にとって魅力的なキャリアのゴールとなるような環境を整えることが重要だと思っています。

――IT業界ではいわゆるJTC(日本の伝統的な大企業)が少し否定的なニュアンスで扱われることがありますよね。

私自身も就職活動時にそういった印象を持ち、外資系企業を選んだ経験があります。しかし、この認識を変えていく必要があります。会社は人がつくるもの。違和感があるのであれば、私たち自身がそれを変えていく必要があります。

日本企業を、IT人材が働きたいと思える場所、さまざまな可能性を感じられる場所に変えていく。それが私の考える「日本を良くしていく」ための最初の一歩です。

取材・執筆・文責:河原崎 亜矢
編集・制作:Findy Engineer Lab編集部