Findy Engineer Lab

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なんとなく始めただけだった僕がITエンジニアを10年続けられたワケ

石の上に3年しか座れない

幼い頃から、ひとつのことを突き詰められない性格がコンプレックスだった。

小学1年生のとき、初めて習い事を始めた。それはテレビで見た試合に魅入られた剣道だった。警察署で指導してもらいながらの剣道は3年続いた。だが小学3年生か4年生だったか、僕は突然ピアノに興味を持った。ピアノに興味を持ったのはなぜだろう? たぶん友達が始めようとしていたからだ。剣道も途中まで続けていた記憶があるが、最後の方は興味を失っていたように思う。そして小学5年と6年頃になると、ピアノよりも水泳に力を入れるようになっていた。水泳は単に、もっと上手くなりたいと思っただけだ。

始める理由はいつも直感的で、やめる理由はたいてい興味関心の目移りだった。

3年という歳月は僕を簡単に目移りさせる。その年数が経つと夢から覚めたように、熱も冷めた。

中学時代、卓球で地区大会優勝に至るまで毎日練習した。当時、練習するほど強くなる体験がとても楽しかった。それでも高校では帰宅部だった。

せっかく3年も座っていたはずの石の上から、石が温まる頃合いで僕は立ち上がってしまう。

何人かの人は僕に「もっと続ければ」と思ったかもしれない。大人からすれば、希望の塊である小中学生がたった3年で物事を諦める姿などあまり見たくはないだろう。

そういう性質である僕が、ITエンジニアという仕事を10年続けている。

僕にとってITエンジニアは、就職活動に失敗し続けた結果の残り物の選択肢だった。選んだ当初なんの思入れもなく、「もともとワープロで文字打つの大好きだし、作家にもなりたかったくらいだ。今もパソコンに向かっているので何ら問題ない」という楽観的な理由だった。だからこそ今こうして働いていることは、僕自身でも驚愕なのだ。

だが思い返せば続けようと思った分岐点は、確実に存在する。

"楽しいだろう"と思ったことを選んできただけ

僕は2024年8月時点で、株式会社マネーフォワードという会社でSREを担当している。2021年の転職時点で4社目になっていた。

新卒時代はキャリアの最初はデータセンターにキッティングに行くインフラエンジニアだった。そこから勉強ついでにAWSを本格的に触りだしたことを機にWebサービスを展開する企業に転職して、その後は少人数のスタートアップに転職した(察しの良い人ならお気づきだろうが、このキャリア数で4社経験するにはやはり一社あたりを1〜3年程度で転職することになる。実際、一番長くても3年半だった)。

2018年には、初めて自主製作した本を頒布したことで、作家になりたかったという小さな目標のハードルのひとつを超えていた。

今でこそそれなりにお仕事を頂けるようになった自覚があるが、新卒のときは完全に未経験だったことや慣れない社会生活で周囲に迷惑をかけていた。未経験就職というのは、耳にするすべてが新鮮である代わりに、現場の仕事のほとんどは理解できずに心が折れるリスクもある。ただ言われたことだけをやるか、それすらできず無力感に苛まれていたのが22歳の自分だった。

24歳になった頃、ようやくなんとか半人前になったことで僕のキャリアが動き始める。3社目となるスタートアップに転職したことで、当時数名の正社員エンジニアとともにひとつのプロダクトを開発運用しながら、エンジニアの基礎を叩き込んでもらった。今の僕の仕事は、その会社で学んだことの8割がベースとなっている。端的に表現すると、実に楽しい時間だった。

世界はよくできていて、楽しく仕事していると人には面白い出会いがある。

2019年「小学生のとき、一太郎スマイルを使っていた」という話が、会社のSlackで突如始まった。26歳になった僕は、20年も前に使っていたソフトのことを久々に思い出した。

一太郎スマイルとは、株式会社ジャストシステムが販売していた小学生向けのワープロソフトだ。

Windows98だったか、独特の起動音を出すそのOSを怖がりながら、僕はワープロソフト「一太郎スマイル」を立ち上げては遊んでいたのだ。

結局のところ、僕はいつ一太郎スマイルから卒業したのかわかってはいないが、教育ソフトとして最高の終わり方ではないだろうかと、今なら思う。

一太郎スマイルは僕のパソコン教育にコミットし、僕の今を作り、自らは気づかれないうちに僕の記憶からフェードアウトした。教育ソフトのあり方として、美しいなと素直に思った。

僕がITエンジニアになったのは偶然ではあるが「大丈夫だろう」と判断できたのは「もともとワープロで文字打つの大好きだし」という理由だ。

つまり、線をつなげるとその大元には一太郎スマイルが少なからず存在している。ITエンジニアになったきっかけではないが、あのソフトがなければ選択していなかったかもしれない。

そのことをSlackに投稿すると、社内に一太郎スマイルの開発元で働いていた方がいた。まさしく偶然の出来事であったが、その方とやり取りをしていく中で僕は初めての経験をした。

「スマイル使ってたの? これで勉強した子が社会人になってるんだ」

「僕はこれがなければエンジニアになってなかったかもしれないですね。あれでキーボードの楽しさも、パソコンの楽しさも知ったんです」

その後、僕の経験と感謝の気持ちが一太郎スマイルの開発者に届けられたことを知る。

その返信の中で、この言葉がずっと頭に残っている。

「エンジニア冥利に尽きます」

感謝と思い出を20年越しに伝えられたことも僕は嬉しかった。

何かをつくって世に出せば、間接的に人と関わることになる。それが知らないうちに、誰かの人生を変えていることがあるということ。

僕は身をもって彼らに人生を変えられていたことを知った。"パソコンに文字を打ち込む面白さ"を生活に馴染ませ、僕が気づかないうちに分岐点となる種を植えてくれていた。

そういう種は、気づいていないだけでいつもどこかで植えられているのかもしれない。

いつかこう言ってもらえるようなものを自分も作りたいと思った。このときから、自分自身のアウトプットに意味を考えるようになった。ただ単にものづくりするのではなく、たった一人の誰かに刺さるように作ることもある。

自分の存在や、つくったものが誰かの人生を変えることがある。それはソフトウェアかもしれないし、登壇かもしれないし、一冊の本かもしれない。

僕がそうしてもらったように、今度は自分が還元する番なのだ。

偶然の中にあるものを探してみる

人は生きていれば必ず選択を迫られる。何かを選ぶとき、あなたは何を基準にするだろうか?

誰かの意見を参考にするか。インターネットのおすすめか。それとも自分自身に問いかけるか。

僕の選択基準は「楽しそうか」である。文字を打つのが好きだし大丈夫だろうという楽観的な感想には、誰かの意見は反映されていない。確実に自分の中にあるうっすらとした原体験が、直感的に背中を押した。

ITエンジニアという職業は決していい体験ばかりではなく、大変なことも多いが、課題が自分の手で解決できた瞬間は最高の気分になれた。続いている理由は単に「楽しいとこもある」というシンプルなものだ。

僕のキャリア分岐点は一太郎スマイルの開発者からのお返事だったが、この出会いに行き着くにも無数の分岐点があったに違いない。どの選択を取るか迷ったとき、一番良いのは「楽しそうか」で考えればいいのだ。やったことがあるかないか、それは関係ない。

ここまで読んでくれたあなたのキャリア分岐点はなんだろうか。まだ来ていないぞという人もいるかも知れない。ただそれは、印象的でなかっただけということもある。実は無意識のうちに存在していて、決定的なことがあったかもしれない。

意識的に思い出すことで、また新たな発見や新たな出会いが生まれることもある。

今日は寝る前に少しだけ、思い出に浸るのはどうだろう?

参考文献

拙著