Findy Engineer Lab

エンジニアの"ちょい先"を考えるメディア

住んでいる場所はもう言い訳にならない。地方から発信を続ける元SIエンジニアを駆り立てた「強烈な劣等感」

中道一志@ici_miciと申します。この記事が公開されるころには、島根県の西端部にある益田市での暮らしが始まっています。水と木々がきれいな、少しばかり人のいない街です。

広島から島根への移住。義実家での子育てのため、私はこれまで勤めていたSI企業を辞め、Webサービスを提供する福岡の企業で2022年6月からフルリモートの勤務を選択しました。

ニューノーマルという言葉が生み出されて数年、ソフトウェアエンジニアは自由な生き方を選択できる職業の筆頭になっています。この記事では、地方都市広島から日本全国のコミュニティに登壇して、全国規模のカンファレンスを主催し、そして転職と移住を決断した私の経験をお話します。

新卒から非IT企業で営業職を転々としていた私は、27才のときにJavaの職業訓練を経て、IT業界で働き始めました。ソフトウェアエンジニアになった理由は決して前向きなものではなく、ただ人と関わりたくなかったからです。他人が怖い、それだけの理由でした。

運よくSIerに潜りこみ、主に基幹システムの構築や運用保守業務に従事しました。ものすごく人と関わる仕事でした。顧客や開発者と侃々諤々(かんかんがくがく)やりあう日々は当初の目論見と大きく異なりましたが、とても楽しいものでした。

2019年からコミュニティ活動にも没頭し、Developers Summit 2021ではベストスピーカー5位と公募賞をダブル受賞し、プロジェクト管理ツールBacklogのユーザーカンファレンスBacklog World 2021では運営委員長を務めました。現在も広島の自宅から、日々全国のコミュニティでソフトウェアエンジニアと交流しています。

Startup Weekend ひろしま vol. 3でファシリテーターを務めた

焦燥感と憧れに突き動かされて一歩を踏み出す

私をコミュニティ活動や情報発信に駆り立てたものは、劣等感と怒りです。

私はコロナ禍の前にコミュニティ活動の楽しさに気付き、広島や岡山の勉強会でポツポツと登壇するようになりました。十数人の前で話したり、BacklogのユーザーグループJBUG(Japan Backlog User Group)の広島支部を運営し、皆で集まって学ぶことに夢中になりました。30才手前でエンジニアになった自分ですが「なかなかやれているのではないか」と自信を持ち始めたころです。

2020年。広島で年に一度開催されるオープンセミナー2020@広島で、同年代の及部敬雄@TAKAKING22さんや曽根壮大soudai1025さんの講演を聞き、ものすごく腹が立ってきました。「私はどうして客席側に座っているのだろう」と。「なぜ同年代の彼らのようになっていないのだろうか」と、強烈な劣等感と怒りにとらわれたことを覚えています。

広島に住んでいるから? 20代を営業職として過ごしたから? そのような言い訳では到底納得できず、何者でもない自分を恥じました。この出来事をきっかけに、ソフトウェアエンジニアとしてどう生きていくのかを真剣に考えることになります。

私はIT業界に入るのが遅かったことをずっと悔いていました。もっと早くソフトウェアエンジニアになっていればと、同年代で活躍している方々をうらやんでいました。焦燥感や、自分への怒り、憧れ、嫉妬。きれいな感情ではありませんが、それが一歩を踏み出す力にもなりました。

動き始めれば、好きなものが不思議とたくさん見つかるものです。プロジェクトマネジメント、アジャイル開発、ドメイン駆動設計、UXデザイン。日々の業務には深く関係しなくとも、新しい知識を得る快感に夢中になり、書籍を買い、コミュニティに参加し続けました。共通の嗜好を持つソフトウェアエンジニアとの交流が、大きな刺激と勇気を与えてくれたことは間違いありません。

エンジニアであり続けるために ーアジャイル時代の「個」と「チーム」ー #OSH2020
35歳を超えた僕たちが、 今と未来の技術と如何に向き合うか ~ 35歳の壁を超えていく ~
▲参考:オープンセミナー2020@広島におけるTAKAKING22さんとSoudaiさんの発表資料

そんな中、新型コロナウイルスの感染拡大により、世界が大きく変わってしまいました。

誰でも、何でも、どこからでも、学んで伝えることができる

肌感覚ですが、私のいる広島と首都圏では、技術レベルに3年以上の差があります。もちろん先進的な取り組みを行っている企業は広島周辺にもたくさんありますが、首都圏以外に住むソフトウェアエンジニアならこの感覚が分かるはずです。

私自身、一流のソフトウェアエンジニアとして活躍するには首都圏で働かなければいけないと考えていました。Developers Summitなどの大規模カンファレンスは地方都市に住む私にとって別世界の出来事であり、後日公開されるITメディアの記事を読むものでした。そういうものだと思っていました。

ところがコロナ禍で、以前のように大人数で集まることはできなくなり、コミュニティは軒並みオンラインでの開催に切り替わりました。それで「急激に世界が狭くなっている」と感じました。全国津々浦々の勉強会に毎日のように参加して、リモートで夜な夜なエンジニアの話を聞きました。

私が運営するJBUG広島もオンラインの開催になり、他県からも人が集まるようになって参加者数は倍増しました。さまざまな方を登壇に招いて、名だたるソフトウェアエンジニアと広島の勉強会で交流できることに興奮したのを覚えています。オンラインでのコミュニティ活動では、場所による格差が急激に失われていると確信しました。

他県の勉強会に登壇するうち、気付いたことがあります。首都圏のエンジニアだろうが、別に怖がる必要はない。肩書きや経歴を見て別次元の人間だと考えていた自分が間違っていました。コミュニティの中では誰もが平等で、皆が学びたかったり、伝えたかったりしている。それだけなんだと。

コミュニティがオンライン化することで参加者は何倍にも増えましたが、活動内容は広島で十数人の規模でやってきたことと変わっていません。居住地や業務内容を言い訳にせず、挑戦しようと考えるようになりました。私が憧れたソフトウェアエンジニアたちと同じ土俵に上がりたい。静かに心が燃えました。

強い想いは呪いのようなもので、仕事中や休日のふとした瞬間、夜中に酒を飲んでいるときでさえ「お前は今、全力で挑戦しているか? 憧れに向かって進んでいるのか?」と囁(ささや)きます。駆り立てられるように、興味ある分野のコミュニティ活動や、資格の勉強に没頭しました。

オンライン開催したJBUG広島#6の様子
▲ オンライン開催されたJBUG広島#6より

コロナ禍の大きな3つの選択 ─ 主催・登壇・誕生

2021年には、3つの大きな出来事がありました。1つめはBacklog World 2021の主催です。

Backlog World 2021運営委員長としての決意表明 [コミュニティと器について]|ナカミチ|note

2018年から毎年開催されてきたBacklog Worldは、首都圏の大きな会場に全国から人が集まる盛大な催しで、最高責任者となる運営委員長は必然的に首都圏で自由に動ける人が担うものでした。Backlog World 2020でオンライン開催に切り替わりましたが、それでも主要メンバーは首都圏に固まっており、私にとっては「あっち側」に住む人が運営するものでした。

2021の開催にあたって「運営委員長をやってみないか?」と打診されたときも、光栄ながら、非常に嫌でした。500人を越える参加者が集まるカンファレンスの代表を務めることが怖かった、という方が正しいかもしれません。しかし、この程度で尻込みしてはいけないと考え直し、引き受けることにしました。

全国に散らばる運営メンバーをまとめ、フルリモートで全国規模のカンファレンスを作り上げるのは流石に不安でした。プロジェクトの推進、特にコミュニケーション面で難しいと考えていましたが、いざやってみると特に困りませんでした。以下を徹底しただけです。

  1. カンファレンスのビジョンを含め、思想や日々感じたことを明文化する
  2. 非同期でのコミュニケーションを前提とする
    • 定例ミーティングに参加できないメンバーの意見も同じ重みで扱う
  3. ヒトデ型組織を作る
    • 各チームに最大限の権限を委譲する
  4. 感謝を積極的に伝える

参加者が数百人を超えるカンファレンスは、特別なコネや経歴がないと作れないものだと思い込んでいました。しかし、全くそんなことはありません。やるか、やらないかだけです。素晴らしいメンバーにも恵まれました。詳細は、後述の登壇資料を見ていただければ幸いです。

2つめは、Developers Summit 2021での登壇および受賞です。

先述した通り、東京で開催されるDevelopers Summitは、私にとって凄腕ソフトウェアエンジニアが交流する様子をSNSで垣間見る別世界の出来事でした。しかし2021年はそれまでと異なり、公募セッションの募集要項に「Zoomを使用し、ご自宅等からの講演が可能」と記載されていました。もしかしたら広島からでも登壇できるかもしれない。そう思った瞬間、頭からDevelopers Summitが離れなくなりました。

技術寄りの話は苦手なため、自分の中から無理やり講演内容を絞りだし、公募セッションに申し込みました。オンライン状況下でのコミュニティ活動やカンファレンス作りに焦点を当てた内容です。正直なところ自信は全くありませんでした。ただ、このチャンスを見送ったら一生後悔すると、直感に従いました。

フタを開けると無事に採択され、当日は多くの反響をいただきました。憧れのエンジニアと同じステージに立てたことに感動しました。

最後に、双子の誕生です。切望していた子どもが一度にふたりも生まれました。育児休暇を取得して妻と一緒に子育てする中で、今までの働き方を考え直すようになりました。

ソフトウェアエンジニアが働き方を選択できる時代

核家族で双子を育児することは、想像以上に大変でした。私と妻の実家はそれぞれ隣県にあるため、気軽に援助を求められず、夫婦ともに疲弊しました。とくに日中は、子どもを妻ひとりに任せることになるため、出社することにも疑問を感じました。楽になる未来が想像できない日々が続き、無理なく子育てができる働き方を探そうと決意しました。

とはいえ、互いの実家は一般的にかなりの田舎にあり、広島に比べると働き口は少なく、賃金水準にも大きな差があります。そのため、親元に帰る選択肢は全く考えていませんでした。

しかし調べてみると、フルリモート勤務が可能な企業はたくさん存在しました。やりたい仕事、賃金、居住地、家族との時間、全てを解決できる選択が可能であることに気付きました。世界は、いつの間にか変わっていたのです。転職と移住を決意しました。

幸運なことに希望通りの企業に入社が決まり、現在は引っ越しの準備に追われながらこの原稿を書いています。コミュニティ活動を通して仲良くなった友人が勤める会社です。ちなみに私の転職活動は、全て知人が所属する企業が対象でした。コミュニティのおかげで知識だけではなく、働き口まで得ることができました。不思議なものです。

仕事を変えて、住み慣れた場所を離れる。この選択が正しいのか、今はまだ分かりません。未知の場所に馴染めなかったり、やっぱり皆で顔を合わせて仕事がしたいと後悔したりするかもしれません。新しい職場では業務内容も変わるため、不安でいっぱいです。ただ、コミュニティ活動をしたり、ブログを書いたり、他のエンジニアと交流したりしていなかったら、選択の機会すらなかったでしょう。

キャリアについては、置かれた場所で精一杯やるしかないと考えています。この業界に未経験で入ってきた人間としては、そうせざるを得ませんでした。精一杯取り組むことで知識や経験が蓄積され、それが身を助け、外の世界へ発信すれば誰かが見つけてくれます。その誰かが、もしかしたら人生を大きく左右する人物かもしれません。ですから反応が少なくても、発信を継続することが大切です。

私が伝えたいことは、ソフトウェアエンジニアは技術を磨き、外の世界に発信することで、どこに住もうが、何の仕事をしていようが、自由になれるということです。人生にとって大切なものを選択できる力を得るということです。

妻実家の窓からの景色
妻実家の窓からの景色

なお、転職活動の記録はブログで公開しています。この記事には経験したことのない数の反響があり、とても驚きました。

36才SEの転職日記 vol.1|ナカミチ|note

人との出会いが思いがけないところへ連れて行ってくれる

私には飛びぬけた技術や、書籍を出版できるほどの知識はありません。これまで「わたしの選択」に登場した誰よりソフトウェアエンジニアとしての技量は低く、経歴も地味なはずです。ただ、技術について話し、新しい世界に触れることが好きで、コミュニティを通して自身の考えや経験を発信してきました。

思えば人と関わるのが嫌で、プログラマーを志望してこの業界に入りました。今ではなぜかプロジェクトマネジメントをしています。新しい職場でも同様の役割を担います。望んだ道とは違いますが、その時々で最も力を発揮できる立ち回りをしていたら自然とこうなりました。皮肉にも営業職時代に培った折衝力や、炎上プロジェクトで鍛えられた「限られたリソースで成果を出す技術」が役立っているようです。

ジョン・D・クランボルツ教授が「計画的偶発性理論(Planned Happenstance Theory)」と名付けたように、キャリアというものは思い描いた通りにはいかないようです。私自身、偶然の出会いに導かれ、数年前は想像できなかった人生を歩んでいます。最初は何となく参加したコミュニティが、私のキャリアを大きく変えてくれました。前に進むきっかけをくれた方々との出会いを、今でも鮮明に覚えています。

我々ソフトウェアエンジニアは、PCさえあればどこでも力を発揮できる業界に生きています。現在の仕事やキャリアに悩む方は、コミュニティなど外の世界に触れてみてはいかがでしょうか。問題解決を自身の中ではなく、外の世界に求めることをおすすめします。

新しい世界に踏み出すことは恐怖を伴うでしょう。恐怖は、それを超える衝動と熱狂で吹き飛ばすしかない。私は弱い人間なので、この原稿も「嘲笑されるかもしれない」って恐れと戦いながら書いています。きっと、皆そうやって前に進んでいます。

人との出会いが、あなたを想像もしない場所へ連れて行ってくれます。自由に生きていきましょう。この決して平坦ではない人生の話が、誰かの助けになれば、とても嬉しく思います。

子どもたちと(筆者近影)

編集:はてな編集部