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常に面白いと思う道を選んできたけど、今回だけは何があってもやるんだ ─ 能登半島地震で被災した井原正博さんはGovTech東京で変革を起こしたい

ヤフーやクックパッドといった大手Webサイトでサービス開発や新規事業にも携わった井原正博さんは、自ら起こしたベンチャー企業の代表を10年近く務めてきました。2024年5月、井原さんはその会社を人に譲り、東京都のDX化を技術面から推進する一般財団法人GovTech(ガブテック)東京の業務執行理事兼CIOに就任しました。

就任から3カ月、民間企業で数々の開発現場をまとめてきた経験から、行政の技術改革に取り組みはじめています。都のデジタル化の現状が見えた今、井原さんが考えるGovTech東京の開発体制と強い組織作り、民間企業との違い、行政サービスに関わるエンジニアのキャリアについてお話を伺いました。

被災体験で公的な情報共有サービスの重要性を実感

── 井原さんのブログでは、2024年1月1日に起きた能登半島地震の被災経験が、GovTech東京入職のきっかけとありました。具体的にはどのような気持ちの変化があったのでしょうか?

井原、社長を辞めて転職するってよ|井原 正博

井原 今年、10数年ぶりに石川県の妻の実家に帰省したのですが、そのタイミングで能登半島地震が起きたんです。幸い家族は無事でしたが、震度6強に遭遇し、近くの避難所で数日寝泊まりすることになりました。災害で封鎖された道はどこか、東京に戻る手段はあるのか、知りたい情報が公共のサービスから得られない。電気、水道、ガスなどのライフラインの重要度を実感する一方で、自治体の一次情報にはちっともアクセスできない。公的な情報提供サービスが機能していなかったんですよね。情報だって重要なライフラインのはずなのに。それがすごくもどかしくて。

── それからどういった経緯でGovTech東京に入職されたのでしょう?

井原 2023年のGovTech東京設立時から、理事長に宮坂学@miyasakaさんが就任されたと知り、どんな組織かと興味は持っていました。ただ当時、僕には10年ほどやっている自分の会社があったので、すぐに動き出せる状況ではありませんでした。

それが、正月の被災をきっかけに「行政のデジタルサービス化をやってやろう」という気持ちが高まり、そのタイミングでちょうど自分の会社の事業やサービスに興味を持ち「社長をやります」と言ってくれる人とも出会えたので、会社はその方に譲ることにして、1月下旬にGovTech東京の選考を受けることに決めました。

── 選考過程はどのようなものでしたか?

井原 公益性の高い組織なので、選考はきっちりしていましたね。2010年にクックパッドに入社したときの履歴書と職務経歴書を引っ張り出してきて「開発部長でした」「その後、起業して代表取締役やってました」ということを追加して選考に臨み、何度かの面接を経て入職が決定しました。

選考当初は、GovTech東京に入ったら採用イベントを企画して民間企業で働くエンジニアを行政の仕事につないだり、技術組織を作ったりしたいと思っていました。正直、自分が理事に就くとは想像してませんでしたね。ただ、拝命されたからにはちゃんとやるし、成果を出さないといけない。「必ずやらねばならぬ」という使命感はすごくあります。

都民1,400万人に向けてDXを推進する技術組織

── GovTech東京とはどんな組織なのか教えてください。

井原 簡潔に言うと、東京都庁と東京にある62の区市町村のDX(デジタルトランスフォーメーション)を推進する。都庁や区市町村と一緒にデジタル化を進めていく技術集団です。

── スタッフは何人ですか?

井原 160人ぐらいですね。東京都庁から出向している職員と、GovTech東京で採用した社員が半々ぐらい。加えて、区市町村からきている職員もいます。そのうちエンジニア職は40~50人です。

── どのような事業を行っていますか?

井原 東京都の現在の人口は約1,400万人です*1。その1,400万人の都民(ユーザー)に対して提供する公共サービスを、デジタルの側面からサポートしています。例えば、都民サービスの変革の突破口として、GovTech東京は東京都と協働で「こどもDX」に取り組んでいます。その中で、東京都の子供・ 子育て支援「018(ゼロイチハチ)サポート」において、親子のマイナンバーカードをスマートフォンにかざすことで申請できる新しい仕組みを、デジタル庁・東京都と協働して導入いたしました。

さらに、行政サービスの提供元となる都庁や区市町村の役所内のDX化推進も、我々の仕事です。

── ほかにも「デジタル基盤強化・共通化」「データ利活用推進」なども行われているそうですが、これらはどのようなものですか?

井原 「デジタル基盤強化・共通化」としては、東京都独自のクラウド基盤を用意してコスト削減していこうとか、クラウドのオフィスサービスなどを自治体ごとにバラバラに調達するより、まとめて購買してスケールメリットやコストメリットを得ようとか、そういった提案をしています。

「データ利活用推進」としては、都や市区町村が持つデータをオープン化して、みんなで利活用できるよう推進しています。データはあるけれど活用されてないものを利活用する。そのためのサポートも行っています。

日本の公共デジタルサービス開発をリードしたい

── そういったGovTech東京で、井原さん自身はどのようなことにチャレンジしたいと考えていますか?

井原 やりたいことはたくさんありますが、一番の目標は「公共システムの内製化」です。自分たちでシステム開発もするし、パートナーであるベンダーに開発してもらったシステムでも、例えばフロントエンド部分は著作権をこちらで持って、自分たちで改修できるようにしたい。

現在、行政システムはベンダーに発注して作ってもらうのが一般的ですが、自分たちで作れるものは内製化すればいいし、APIのインターフェース仕様をこちらから出してバックエンドはベンダーに作ってもらい、フロントエンドはこちらで組み立てる手もある。そうすれば、その部分はこちらに著作権があるので、都民からの使い勝手などのフィードバックをすぐに反映できるはず。

この前も、アプリのモックを検討する機会があって「ここに表示を追加したら、ユーザーにとって便利では?」という意見が出たのですが、2分後には「こういうことですか?」と修正されたモックが出てきたんです。これが内製化のよさですよね。これを外部のベンダーに委託すると、1週間後に会議で仕様を決めて、さらに1週間後に修正版が上がってくる、みたいなスケジュール感でしょうか。

GovTech東京で内製すれば、都民の満足度向上に素早くつなげられると思うんです。

── 例えば、どのようなシステムの内製化を考えていますか?

井原 分かりやすいところで、公共施設の予約システムなどは、現在どの自治体でも同じようなサービスが個別に作られています。そういったものをGovTech東京が作って都内の必要な区市町村に配ることができれば、時間やコストをかなり圧縮できるはずだし、都内全域で快適なデジタルサービスを提供できるようになります。

さらに、そういったシステムだけでなく、ルールやデザインガイド、セキュリティガイドラインも同様ですね。できれば、オープンソースやインナーソース*2の形で、東京に留まらず全国に配れればと思っています。首都・東京として日本の公共デジタルサービス開発をリードしていきたいと思います。

── 開発はもう始まっていますか?

井原 今は開発環境を整備している段階です。何もないところからのスタートなので「開発環境をどこに置くか」「要求仕様はどうする」「開発手法は?」と、全てゼロから考えてます。1つ1つ選択して環境を整えて、システムの開発を進めたい。最終的には作った開発環境もノウハウも全部オープンにして、「これを真似すれば同じようにできますよ」という形にしたいですね。

── どんなサービスから取り掛かる予定ですか?

井原 将来的には基幹系も視野に入れてますが、まずは小さなものから着実に実績を残したいなと。例えば身近なところで、都庁や区市町村の職員用のスケジュール調整ツールとか。

── スケジュール調整ツール?

井原 自治体の職員って、ミーティングや調整の仕事がとにかく多いんですね。毎日何度も電話をかけたり、何往復もメールのやり取りをしたり、とても大変なんです。民間企業なら既存の外部サービスを比較的気軽に利用できますが、会議の名称や参加メンバーなどから機微情報が流出する可能性を考えると、怖くて使えない。行政の中で安心して使えるツールをGovTech東京で作りたい。そして、それをできるだけオープンな形で配布したい。

こういった試みが成功すれば、煩雑な仕事から職員が解放され、空いた時間でほかのことができます。デジタル化で時間を生み出す。全国に300万人以上いる公務員の時間を少しずつでも生み出せれば、全体で得られる効果はかなり大きくなるはずです。

失敗から学んで成長できる組織こそが理想

── ここで話題を変えて、井原さん自身のキャリアについて聞かせてください。これまで、どのような組織でどんなエンジニアと働いてきたのでしょうか。

井原 僕自身、キャリアのスタートはエンジニアでしたが、当時は「コードを書ける人間が偉い、コードも書けないやつはごちゃごちゃ言うな」くらいのことを思ってましたね。要するにかなり尖っていた、特に若い頃は。思い返すと恥ずかしいです(笑)

── 今の井原さんからは想像がつきません。

井原 クックパッドで開発部門を任されたときもまだ尖っていて、誰にも負けない世界一の技術集団を作ると息巻いていました。採用では、自分より優秀で、現在のメンバーより秀でたところがあるエンジニアだけを徹底的に厳選していました。実際、世界一のエンジニアチームとは言わないまでも、日本一ぐらいにはなったと思います。

しかし、起業経験などを経て、意識が変わった部分があります。ただ単にスキルが高いスーパーエンジニアがいるだけじゃだめなんです。組織で大切なのは、一緒に働くエンジニアの技術レベルが同じぐらいで、活発に議論できることなんです。

同じ習熟度のスタッフ同士なら物怖じせず、フラットに意見を交わせます。1人だけ抜きん出ている状況だと、その人が正解を知っているので何でも1人で決定すればいい。周りは考えなくてもうまくいってしまうんです。

スーパーエンジニアの存在は貴重ですが、周りのエンジニアの成長の芽を摘んでしまう場合もある。失敗から学ぶことはたくさんあるので、自分で考えて手を動かして、最適だと思うことを選択しながらともに成長していく。そんな組織を作れたらと思います。

▲ GovTech東京オフィスにて、インタビューを受ける井原さん(撮影・編集部)

── GovTech東京の技術チームはどんな雰囲気ですか?

井原 リモートワークのエンジニアも多いので、普段、オフィスで顔を合わせる人はそんなに多くないですね。ただ、スタッフ同士で意見も言い合えるし、職場の雰囲気は悪くない。

── 民間企業と異なる点はありますか?

井原 基本的には、民間企業の技術部門とそんなに違わないと思います。ただし、お金の使い方などには気をつかいますね。

先日、LT(ライトニングトーク)大会をやったんですが、1人5分の持ち時間で、開始と終了のタイミングでは銅鑼(どら)を「ダーン」と鳴らしたいよねという話になって。民間企業ならトップが判断したら銅鑼くらい好きに購入すればいいのですが、我々は公金で運営されている組織なのでそういうわけにもいかず、結局、理事たちのポケットマネーで購入しました。

あらゆるエンジニアの転職先候補になれる

── エンジニアにとって、GovTech東京で働く魅力とはどのようなものだと思いますか?

井原 実はGovTech東京の広報活動は始まったばかりで、エンジニアが働ける環境だということは、まだあまり知られてません。でも、自分がいろんなエンジニアに話すと、みんな「めちゃくちゃ面白そうだね」と言ってくれる。実際、めちゃくちゃ面白いんですよ。

まず、何もないところから全て作り上げる面白さが味わえます。システム開発にあたり、要求仕様のフォーマットづくりやルールの策定、デザインガイドやセキュリティガイドラインの作成など、全てこれから作っていきます。やることはいくらでもある。

GovTech東京の取り組みは、たとえるなら、大きな山を切り崩して米作りを始めるようなものかもしれません。山を崩し、岩や土を捨て、水路を引き、田んぼを作る。米を作る場所がようやく整って、これから田植えが始まるイメージです。DX推進を進めるための環境が整いつつあるので、いよいよ本格的にGovTech東京でシステムを内製し、サービスをリリースしていきたい。

── 今後、どんなエンジニアにGovTech東京に来てほしいですか?

井原 エンジニアって社会貢献したいと話す人が多い印象ですが、「役に立ちたいんなら、ここにいれば、めちゃくちゃ役に立てるぞ」と言いたいですね。都民1,400万人というユーザーを相手に、やりがいはあるし、社会的意義もある。イケてるベンチャーを渡り歩けるようなエンジニアにも、それらと同じくらい魅力的な組織にしていくので、とにかく一度こちらに来てくださいませんか?と。

あとはいわゆるベンダーと呼ばれるような大手SI企業で、システムを受注する側だった人たちにも来てほしい。こちらに来て賢い発注者になってほしいんですよ。プロ同士で受発注できれば、より良いシステムができると思うんです。あらゆるエンジニアの転職先候補に、GovTech東京が含まれるのが理想です。

── 待遇が気になる、という方も多い気がしますが。

井原 給与については決して悪くないどころか、むしろけっこういいんじゃないかと思います。採用情報でもそれなりの金額を提示してるし、実際にそれくらいの給与を出しているので。

── GovTech東京のスタッフには5年という任期があるのですよね。

井原 はい、そこは民間企業と違うところですね。ただ、ここに来るエンジニアなら5年後も絶対大丈夫だって思いますけどね。変な意味ではなく各所にパイプもできると思うし、経験もすごく積めます。

例えば、自治体には「CIO補佐官」というCIOを補佐するデジタル人材の仕事があります。都庁や地元の役所の各局のCIO補佐官を狙ってみるとか。キャリアを生かす道はいくらでもあると思うんですよね。

▲ GovTech東京オフィス内。テーブルなどには東京都で伐採された木材が使用されている

組織作りや技術のノウハウを全て出し切ってやり遂げたい

── 井原さん自身のキャリアを振り返って、今の仕事はどういったものになるのでしょう?

井原 僕はこれまで、キャリアプランとか何もなくて、ただ目の前にあることを頑張ってきたんですね。やりたいことをやって、面白いと思う道を選択してきました。そこには何の後悔もないです。

ただ、今はとにかく「自分の力が、何かしら人の役に立つのであれば、それを役立てたい。役立ててもらいたい」という気持ちが強くあります。被災の経験も大きかったし、年をとったということもあるのかもしれません。特に今回のGovTech東京の仕事だけは、自分から掴みにいってやりたいと思いました。

やりたいことをやってるし、本当に楽しいと思っているんですけど、やりたくないことが来ても、今回だけは、やりたくなくてもやろうと思ってます。全てのことを面白がれるか分からないけれど、必ずやり遂げたい。自分が得意な技術的な部分、組織作りのノウハウ全てを出し切って成果を出したい。

そこは震災の体験が大きくて、「どんな苦労や困難があるのか分からないけど、被災している人に比べたら、こんなもん困難でも苦難でも何でもないぞ」と。日本最大の自治体である東京都から行政のデジタルサービス開発をリードして、全国の地方自治体にも貢献したい。自分が関わることで大きな変革を起こしたいと思ってます。

取材・構成:畑 明恵、勝野 久美子(トップスタジオ)
編集・制作:はてな編集部
写真提供:GovTech東京

*1:参考:東京都の人口(推計)-令和6年7月1日現在|東京都

*2:企業や組織などの限定的な範囲で、オープンソース開発の手法を取り入れてソフトウェア開発を進める手法。