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逆境でも乗り越えられたのは、心の底からJavaが好きだから。「#てらだよしおがんばれ」に支えられた半生

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日本におけるJavaの普及に、多大なる貢献をした人物がいます。その方とは、日本人で2人目のJava Championである寺田佳央@yoshioteradaさん。寺田さんは、これまで複数の企業でJavaやその関連製品のエバンジェリストを務め、日本におけるJavaの利用促進・啓蒙活動に従事してきました。

約25年にわたり、Javaと向き合ってきたキャリア。活動を継続できた理由は何にあったのでしょうか。今回は寺田さんにその歩みを振り返っていただきました。

それはiPhoneやKubernetesの登場にも等しい衝撃だった

── まずは寺田さんがJavaに触れたきっかけを教えてください。

寺田  私が大学生の時代にさかのぼります。当時は、ネットワーク構築やPerlでのCGI作成、システム管理用の簡単なプログラム制作などをしていました。そんな折、大学の同じ研究室だった友人がJavaのAppletで動く「タンブリングDuke」のアニメーションを見せてくれたのです。DukeというJavaのマスコットキャラクターが、横に一回転するというものでした。

Duke

▲ JavaのマスコットキャラクターであるDuke

現代のエンジニアは、なぜ私がそんなことに驚いたのか想像できない方も多いのではないかと思います。ですが、当時としては相当に革新的なことでした。例えて言うならば、iPhoneやKubernetesなどが登場したのと同じくらいの衝撃でした。さらに調べていくとJavaの利便性やオブジェクト指向という概念の素晴らしさに気付き、そこから一気にJavaが好きになったのを覚えています。

私が大学院への進学を考えるようになった頃、私の所属する大学では当時最先端の技術だったJavaについて指導を仰げる教授がいない状況でした。そんな私を見た大学教授が「寺田君、あなたがやりたいことは残念ながらこの学校では十分にできない。ただ、私が所属していた国の研究機関にはその分野に精通する研究者がいるので、あなたは大学院の研究をそこで行いなさい」と助言してくださったのです。

旧電子技術総合研究所(現在の産業技術総合研究所)の研究者の方々を紹介していただき、大学院の2年間をそこで過ごすことになりました。私はJava用のテスト技術(テスト・カバレージ、メトリクスなど)を用いたJavaプログラミングの評価を行う研究をしました。

その研究所では、国内の有名企業と共同研究をしたり、国際学会などで分散システムを発表したりするような著名な研究者も大勢いらっしゃいました。最初は「場違いな所に来てしまった。自分の実力では到底ついていけない」と感じたものです。ですが、寝る間も惜しんで必死に勉強し食らいついていきました。

この研究所での経験が、現在のエバンジェリストやアドボケイトの仕事の原体験になりました。筑波で開催された国際学会に参加する機会があり、そこで初めてエバンジェリストのプレゼンテーションを見たからです。ある海外の技術者が、自社のプロダクトについて映画のように見事な説明をしていました。「特定の技術や製品に愛情を持ち、その素晴らしさを他の方々に伝える仕事はなんて格好が良いのだろう。いつかこんなことをやってみたい」と考えるきっかけになったのです。

今いるのが自分の望んだ場所ではなくても、その経験はいつか役に立つ

── 社会人になってからのこともお話しください。

寺田  大学院修了後は、富士ソフトという国内企業に就職して2年ほど勤めました。上司や先輩方にとてもかわいがっていただいたのですが、サン・マイクロシステムズ(以下、サン)に強い憧れを持っていたため転職しました。私は大学時代にUNIX関連のOSに触れていました。そして大学院時代にはJavaの研究を行っていたので、Javaを生み出しSunOS/SolarisというUNIX系OSを提供する会社であるサンに入れば、力を発揮できると思ったのです。

しかし、最初から希望の部門で働けたわけではありません。最初はシステムのサポート部門に所属しました。完全な裏方仕事で、Javaのサポートもあまりなく、SolarisのOSに関する問い合わせが圧倒的に多かったのです。この時期はJavaアプリの開発から一時的に遠ざかっていました。その後にサンの組織構造の変更に伴って部署を異動し、私が本当に行きたいと思っていたJava系のソフトウェアのコンサルティング部門で働けるようになりました。

このときの経験を踏まえて、読者の方々に伝えたいことがあります。私はサンに入ってすぐに、表舞台で大活躍をしたわけではありません。サポート部門というと問い合わせを受ける立場ですので、お客さまからお叱りをいただくことも多々ありました。でも私のキャリアにおいて、その経験をしておいて本当に良かったと思うのです。

そこで仕事をしたことで「自分とは異なる立場で働く人たちに気持ちよく仕事をしてもらうためにはどうすればいいか」を考えるようになりました。また、サポート部門は障害に関する調査を行うことも多かったため、問題調査能力、解決能力が飛躍的に伸びたのです。若い方々は、自分の望んでいた配属先で働けず気落ちしてしまうこともあるかもしれません。ですが、置かれた場所で一生懸命にがんばっていれば、習得したスキルは必ず自分の武器になります。

インタビューを受ける寺田氏

── サンでは、アプリケーションサーバーであるGlassFishのエバンジェリストとしても活動されたとか。

寺田  コンサルティング部門では、プロジェクトに参加しJavaのコーディングやお客さまへの提案などを行いましたが、ちょうどその頃にサンがGlassFishをリリースしたのです。当時はまだ、日本人の社員は数名ほどしか興味を持っていなかったように思います。ですが、GlassFishは起動が高速であることやモジュール化という機能を搭載していることなど、相当に革新的な機能を持つアプリケーションサーバーでした。これはすごいサービスが出てきたと思いましたね。

日本オフィスにはGlassFishの良さをわかってくれる人がほとんどいませんでしたが、私が所属していたグループのメンバーと話をして、「GlassFishの情報発信をしよう」と決めたのです。そうして、たくさんのブログを書くようになりました。

しばらくすると、状況がガラッと変わり始めました。お客さまと名刺交換をして「寺田です」と自己紹介をすると「もしかして、GlassFishのブログを書いている寺田さんですか?」と言っていただけるようになったのです。当然、同行したサンの社員が驚くわけですよ。「どうして寺田のことを知っているのですか?」と。すると、お客さまが「寺田さんはブログをたくさん書いていて」と解説してくださるわけですね。

そうしたことが続くうちに「寺田さんがもっと情報発信をしたいなら」ということで、GlassFishのエバンジェリストとして活動できるようになりました。この経験からも、読者の方々に伝えたいことがあります。仮に技術者として知名度をあげたい、もしくは何らかの技術のエバンジェリストを目指したい方がいらっしゃったら、今の知名度や肩書きに関係なく、まず情報発信することから始めれば良いと思います。継続的に情報を発信していれば、知名度も上がりますし、エバンジェリストという肩書きも後からついてくるものです。

オラクルによる買収後、初の登壇は本当に恐ろしかった

── その後、サンは業績が悪化。オラクルがサンを買収します。

寺田  オラクルに在籍しJavaエバンジェリストとして活動していた時期は、キャリアのなかで一番人間として鍛えられた時期でした。サンの事業が低迷すると、Javaの機能開発もしばらくの間停滞していました。そして買収が決まったとき、社内が騒然としたことを今でも昨日のことのように覚えています。この頃は、一部のプログラマーの間では「Javaは終わった」と言われていた時期になります。

買収完了後、私はオラクルの社員として活動するようになりました。所属が変わってから4〜5か月が経過した頃に、オラクルの年次イベントが開催されたのですが、そこに参加されたオラクルの偉い方から私に声がかかりました。「Javaコミュニティに所属する人から『Javaに対する強い不安がある』とコメントをいただいた。寺田君はサン時代にJavaエバンジェリストをしていたんだよね。オラクルでもJavaのエバンジェリストをやってもらえないだろうか?」と相談を受けたのです。

しかしその頃、Javaコミュニティがオラクルに対して抱く印象は決して良いものではありませんでした。もし私がオラクル社員としてイベントに登壇すれば、SNSでどんなひどいことを書かれるかわかりません。その状況を想像すると、すぐには引き受けられなくて「考える時間をください」と言いました。

大きな不安があったため、サン時代からお付き合いさせて頂いていたJava Championの櫻庭さんに相談をしました。すると「寺田さん、ぜひ引き受けてください。フォローできることはフォローしますから」と言ってくださったのです。日本で一番Javaを愛している方にそう言っていただけるのであれば、がんばれると思い、最終的に引き受けました。その後、JJUG(日本Javaユーザーグループ)にも直接顔を出して、協力を仰ぎました。

オラクルのエバンジェリストとしての最初の発表は、一生記憶に残るプレゼンテーション*でした。大規模なテクノロジー・カンファレンスで「Javaは今後も大丈夫です」というメッセージを伝えるのに、非常に緊張をしました。顔も引きつっていたでしょうね。

*…寺田さんのプレゼンテーションの内容は、Webメディア「CodeZine」のレポート記事「デブサミ2011レポート Oracle統合後のJavaの今後について」で紹介されています。

私があまりにも緊張をし、一つひとつの言葉を丁寧に選んで伝える様を見た参加者は、SNSで「この会場、(空気が冷え込んでいて)寒いんだけど」「会社の謝罪会見が始まった」などというメッセージを投稿されていました。このセッションは、後に通称「謝罪会見」と言われるようになりました。

今思い出しても、本当に怖かったです。でも、コミュニティのみなさまからご意見やフィードバックを頂くのはとても重要です。そして仮に間違えた点があるならば、できる限り修正をしなければなりません。そのために私は矢面に立ち、ユーザーの声を聞いて社内にフィードバックをしよう、自分が組織との緩衝材になって改善していこう、という覚悟を持って臨んでいました。サン時代から私を知る方が発表を聞いて「大丈夫、応援するよ!」と温かい励ましの言葉をくださいました。心の底からありがたくて、一生忘れられない思い出ですね。

── 過酷な状況のなかで、Javaを捨てて他の言語を扱うキャリアの選択肢もあり得たはずです。なぜ、逃げずにやっていこうと思われたのですか?

寺田  やはり、心の底からJavaが好きだったからです。そして元サンのエンジニアとしてのプライドもありました。自分をエンジニアとして育ててくれたのはJavaですし、Javaにはそれだけの魅力があります。ちょうどその頃『JavaからRubyへ』という本が出て、Javaのコミュニティで有名だった人もずいぶんRubyのコミュニティに流れていました。だからこそ、Javaをなんとかしてもう一度盛り上げたいと思っていたのです。

そして、活動を進めていくなかで、新しい多くの若いJavaエンジニアの方に巡り合うことができました。特に親しくなった若いエンジニアに対しては「ぜひブログなどで、たくさん情報発信をしてください」とおすすめしました。実際にブログを書いて頂いた際は、X(旧・Twitter)でリポストをし、情報拡散のお手伝いをしていました。これは決して、Javaに関する情報量を増やしたかっただけではなく、情報を発信してくださったほうが将来エンジニアとしてより価値が高まると感じていたためです。

これは、若いエンジニアのみなさまにお届けしたいメッセージのひとつですが、自らが情報発信をすることで、自身の技術力を向上させるだけでなく、知名度を上げてキャリアも好転させる大きな力となります。この頃に情報発信を続けていた方は、その後Javaコミュニティでとても有名になりました。このように、ぜひ自ら情報発信を行い、エンジニアとしての価値を高めてください。

オラクルで初めてのJavaOne Tokyo 2012

── オラクルでの活動で印象に残ることはありますか?

寺田  Javaエバンジェリストの活動を始めてしばらくして、私のもとに来年「JavaOne Tokyo」の開催が決まったという話が入ってきました。そして、主要メンバーとしてイベントの企画に携わることになりました。このとき私は「絶対にこのイベントを成功させたい。できることはなんでもやろう」と心に決めていました。

日本全国のコミュニティの方々に、そもそもJavaOneとはどのようなイベントなのかを説明し、「海外で著名なエンジニアが来日する貴重なイベントなのでぜひご参加ください」と伝えて回りました。社内関係者やイベント・スタッフにも、成功を第一に考えてわがままを言ったり、ギリギリの線で交渉したりと厳しい調整作業も行いましたね。結果として当日は、日本全国から想定以上のJava開発者のみなさんにお越しいただきました。Xでもトレンド入りするなど、大成功を収めることができました。

JavaOne Tokyo 2012

▲ JavaOne Tokyo 2012の写真。寺田さんによる撮影。

イベントやその後の懇親会では、Xで「#てらだよしおがんばれ」「#てらだよしおがんばった」などのハッシュ・タグをコミュニティのみなさんが投稿してくださいました。実はイベント前日に、過労がたたり高熱を出して点滴を打っており、懇親会もヘロヘロになりながら参加していたのです。でも会場で「来年も継続してやってほしい」「とても楽しかった」といったメッセージを数多くいただき、胴上げまでしていただいて感動し、胸が熱くなりました。

このイベントの成功は社内でも注目されました。その結果、日本オラクルでJavaはそれまで以上に、とても大切に扱ってもらえるようになったのです。コミュニティのみなさんの盛り上がりや力が、その後の日本におけるJavaの活動を変えたと言っても過言ではありません。

コミュニティに所属することでキャリアはより豊かになる

── オラクルを卒業した後、マイクロソフトに転職しようと思われたのはどうしてですか?

寺田  JavaOne Tokyo 2012から5年が経過し、Javaの置かれている状況は本当に良くなりました。一時期「Javaは終わった」と言われたのが嘘のように、完全によみがえりました。機能改善もかつてないスピードで行われるようになったのです。そして、この約5年は私の人生のなかで最も密度の濃い時間でした。

最初のJavaOne Tokyoの後、名前は変わりましたが毎年JavaDay Tokyoというイベントを開催し、大きな成功を収めることができました。さらにはJavaのコミュニティも、鈴木雄介JJUG会長(当時)のもとで活動を行い、会員数は増加の一途をたどりました。若いエンジニアの方々もコミュニティに参加してくださり、世界最大級のJUG(Javaユーザーグループ)にまで成長したのです。

明らかにJavaのコミュニティが強固になったと感じ、このタイミングで私がオラクルから抜けても、Javaが廃れることはないだろうと思ったのです。元サンのJavaを愛する社員としてJavaを守ることはできたと思い、新たなチャレンジをすることに決めました。

実際に転職をする前には、多くの会社からお声がけ頂きました。そのなかにマイクロソフトもありました。でも、最初にお声がけいただいてから実際に入るまで、2年も断り続けていたのです。なぜならば、そのときはまだ自分が何かを成し遂げたとは感じていなかったためです。

また、最終的にマイクロソフトへ転職しましたが、私のキャリアはUNIXからスタートしていますから、Windowsをほとんど触ったことがありません。それに、昔サンとマイクロソフトは裁判で争っていたくらい仲たがいしていたので、マイクロソフトへの転職は自分自身全く想像がつきませんでした。

でも、マイクロソフトCEO兼会長のサティア・ナデラがイベントなどで「Microsoft loves Linux」と言い始めて、徐々に企業文化が変わりつつあると感じました。そんなタイミングでお声がけいただいたマイクロソフトの方から「寺田さん、Windowsを使わなくてもいいですよ。今までやってきたことそのままでいいので、変わらないでください」と言われました。

そこで大きく気持ちが変化しました。要するに、私のようにもともとUNIXが好きな人間がマイクロソフトでエバンジェリストをすれば、ポジショントークではないので説得力があります。余談ですが、私がいま仕事で使っているパソコンもWindowsではなくMacです。でも決して誰かから叱られることはありません。そのくらい、以前と何も変わらずにUNIX系OSに触れ、Javaの広報活動を続けられています。

とはいえ、最初から順風満帆ではありませんでした。マイクロソフトはもともと、Javaユーザーから見向きもされていませんでしたから。入社後、日本マイクロソフトが開催するイベントにスピーカーとして登壇しましたが、参加してくださった視聴者はわずか5名。すごい所に来たなと改めて感じました。

そこから8年が経ちました。2023年に日本マイクロソフトが「Java on Azure Day」を開催したのですが、500~600名ほどの参加者を集めることができました。ようやくここまで来たのかと、感慨深いものがあります。

インタビューを受ける寺田氏

── 今回のお話を総括して、エンジニアがより良いキャリアを送るための考え方を教えてください。

寺田  私はやはりコミュニティが重要だと思っています。コミュニティのみなさんのエネルギーがあるからこそテクノロジーも進化をしていきますし、そのエコシステムを支える企業もお金や人、時間を割くようになります。仮にコミュニティに人が集まっていない状況だと、企業も投資を渋るようになってしまうと思うのです。今後もJavaを進化させるためには、Javaに興味を持つ人を増やし、コミュニティを活性化させることが重要です。

また、エンジニアがコミュニティに参加することで、最新情報を入手できるだけではなく人々との交流ができる利点があります。その出会いが、エンジニア自身のキャリアに大きく関わってくると思うのです。他の人に自分を知ってもらうことで、新たなチャンスが生まれます。メディアへの寄稿や登壇の機会が訪れるかもしれません。自分のネームバリューが上がり、さらに多くの人とのつながりができる好循環が生まれるでしょう。転職活動にも有利になるはずです。

ありがたいことに、私は日本人で2人目のJava Championになることができました。この肩書きは自分がなりたいからといってなれるものではなく、既存のJava Championからの推薦が必要です。私は幸運にも、前職時代に世界中のJava Championと友だちになっていました。そして、マイクロソフトでもJavaをやっていることを友人たちが知り「YoshioをJava Championに推薦したい」と言ってくれたのです。

その方々の推薦と、既存のJava Championたちの投票によって、私もJava Championになれました。私自身も、コミュニティ活動や情報発信を通じて豊かなキャリアを送ることができました。ぜひみなさんも、エンジニアとしてより幸せになれる道を見つけてください。

取材・執筆:中薗昴
撮影:山辺恵美子