Findy Engineer Lab

エンジニアのちょい先を考えるメディア

旅が面白いのは何が起こるかわからないからだ

渡米

メールでやってきた唐突な仕事のオファーに応えて、渡米を決意した。どうしてそう決めたのかと言われれば、口うるさい母親が昔からアメリカに行けアメリカに行けと煩かった事だとか、給料がよかったからとか、ソフトウェア技術者にとっていかにシリコンバレーが特別であるかとか、それらしい理由もないではない。でも、実際には入念な検討は何もなかった。面白そうだからやってみようと思っただけだ。それで良かったと思っている。若さというのは、無知で無謀なものだ。でも、そのおかげで人生が思わず開けたりするのが、面白いところだ。

その決断の結果、僕の人生は一変した。これを機に、付き合っていた女性と結婚する事に決めた。2001.1.1という日付も縁起が良さそうではないか。誰もいない区役所に婚姻届を出し、近所のコンビニで肉まんを買って食べて結婚を祝い、数日後の飛行機に乗って、冬とは思えぬまばゆい陽光につつまれたサンフランシスコ空港に降り立った。

とりあえず泊まる安モーテルは日本から予約していたが、それ以外は何も準備していない。用意してきた現金で安い車を買い、住むところを探すために、モーテルの薄暗い部屋からそこいらのアパートに片っ端から電話を掛けたが、英語が全然通じず、先行きに不安を感じて途方に暮れたのを今でも覚えている。

初出社の日、直属の上司が出迎えてくれて、僕の机に案内してくれた。Menlo Park 17と名付けられたそのビルは三階建て。中は基本的に全て個室に分かれていて、とても静かだ。僕は、4人用の中部屋に案内されたが、その部屋の住人は僕だけ。一応、上司が彼女のチームのメンバーに僕を紹介してくれたが、英語もろくにできない僕は何を喋っていいかわからなかった。

上司はお昼になったら同僚を誘うので一緒にランチしようと言っていたような気がしたが、時間になっても誰もこないので、僕の聞き間違えかもな、と思い、一人でカフェテリアに向かった。

今から思えば、なかなかハードな滑り出しだ。でも、プログラムを書くのは得意だという自信はあったから、別に悲壮感はなかった。僕は、とあるプログラムを書くために採用され、その仕事に当たるのは僕だけなので、同僚とやりとりをする必要性はほとんどない。それなりの額のお金をもらい、誰にも邪魔されず好きなようにプログラムを書けるのは楽しかった。苦手な英語で誰かとコミュニケーションする必要がないのはむしろありがたかった。

Sun Microsystems

僕が就職したのは、Sun Microsystems。全盛期こそ過ぎていたものの、まだ飛ぶ鳥を落とす勢いだった。本業はハードウェアだが、僕の部署はJavaを作っていて、世界からの視線が集まっていた。ソフトウェア技術者にとってはとても刺激にあふれた環境だった。技術のトレンドの最先端を作る憧れの場。同じビルにいる同僚たちも、その多くがJavaの色々なAPIを設計・実装していた。なにかの道一筋10年みたいな頑固職人がゴロゴロしていた。

サンフランシスコで一番大きなイベント会場を一週間全部貸し切って開かれるJavaOneというイベント。自分たちの作っているJavaのAPIについて発表する晴れ舞台だ。主要なAPIに関する講演ともなれば、1000人位の聴衆の入る部屋が立ち見になる。演壇にあがると、スポットライトのまばゆい光を浴びて、こちらからは客席が見えない。ロックスターのような気分だ。世界中から来ているこんなに多くの技術者たちが、僕の作ったAPIを使ってくれる。こんな喜びがあるだろうか。

当時技術の世界を席巻していたもう一つの流れはオープンソースだった。世界中の技術者が力を合わせて自由で優れたソフトウェアを作る。あるいは、一人の作ったソフトウェアがまたたく間に世界を席巻する。そんな夢に多くの人が惹きつけられていた。日々世界中のあちこちで、個人が、会社が、色々なプロジェクトを公開していた。

僕はといえば、一人ぼっち状態は脱して、チームの中で仕事し、同僚と卓球したりランチしたりする位にはなっていたが、それでも社交も英語も苦手だったから、直接仕事をする同僚以上には知り合いの輪はなかなか広がらなかった。それでも、僕らの部署から出ていくAPIならだいたい全部目を通した。会社の外からやってくるオープンソース・ソフトウェアも読み、時に手を加えた。僕ならばもっと美しいAPIを設計できるのにな、などと思うものもたくさんあったし、これもいいなと刺激を受けるものもたくさんあった。

僕自身も、とにかくプログラムを書きまくった。業務はホワイト過ぎて6時にはオフィスから誰もいなくなるような環境だったし、僕も若かったから時間はあった。”Project of the day”というシリーズで、一日で一つのライブラリを作って公開しまくる、そんなこともやった。自分で書いたものを後から眺めてみると、また色々な感想が出てくる。こうしたらどうか、ああしたらどうか。それが次の作品への原動力になる。

こうして、ソフトウェアの設計と実装に対する自分の美意識が磨かれていった。

だいぶ後の事だが、知人のシェフがこんな事を言っていた。スーパーマーケットにいくと、冷凍庫のチキンが僕に話しかけてくるんですよね。棚を見ながら、これとあれを組み合わせたら面白そうだな、というアイディアが湧いてくる。それをとにかく試してみるんですよ、と。分野は違えど、モノ作りというのは存外同じようなものだ。

しかし、社員にそんな好き勝手に作りたいものを作らせていて、事業が回るはずもない。ある日、一通のメールとともに、唐突に、会社が潰れた。というか、二束三文で身売りした。

Jenkins

物見遊山で買収先のOracleに勤務してみたら、ここは違うな、という事はすぐに分かった。僕らの晴れ舞台だったJavaOneの基調講演を、社長のLarry Ellisonは自分の競技ボートチームを観戦するためにすっぽかした。オフィスにコンピュータを大量においていたら、一人二台まで、とケチがついた。

Sunが潰れた悔しさや、若い反発心が背中を押し、Jenkinsというソフトウェアで一旗揚げよう、そう決意した。この頃、Jenkinsは、僕の書いた無数のオープンソースプロジェクトの中で、一番の当たりになっていた。立派な開発者コミュニティが育ち、世界中で広く使われていた。もっとこのプロジェクトを大きくしたい、そのために時間を使いたいという気持ちが少しずつ育ってきていた。うちに来てJenkinsを大きくしないか、そんなオファーが実際に来るようになっていた。

よその会社でやるよりは、自分の手で。どうやってJenkinsでご飯を食べていくのか、大してアテがあったわけではないが、昔の同僚の一人が一緒にやりたいといってくれたのに勇気づけられた。見様見真似で、フリーランスをやって日銭を稼ぎながら、残りの時間でプロダクト開発をしよう。そんなフワッとした計画で、新しい会社を作った。

技術のわからない嫁さんにしたら、安定した収入を捨てて明日をもしれない零細企業を始めるというのだから、理解しがたかった事だろう。家のローンもあったし、もう子供も出来ていた。それなのに、最後は認めてくれてやりたいようにやらせてくれた。ありがたい事だ。人を説得するのはいつだって論理ではない。物語だ。

実際に会社を経営した経験を持つ今の自分からすると、あまりに無計画で恥ずかしいくらいだ。が、未来はいつだって手探りだ。何かにぶち当たることを信じて、暗闇に手を伸ばしながら前に進んでいく、そういう蛮勇さえあればよい。

CloudBees

こうしてやっていく中で出会ったのが、CloudBeesという会社だ。社長のSachaはスイス人。JBossという会社をRed Hatに売ってしばらく悠々自適の日々を送り、それにも厭きて、またもう一旗あげようとしていた。自分の会社で、思ったようにプロダクト開発に取り組めない事に焦りを感じていた僕は、CloudBeesに合流する事にした。

Palo Altoにある、VCの優雅なオフィスの会議室。最初はこの部屋に社員全員が入ってしまうような大きさだったCloudBeesも、Jenkinsの拡大と共にどんどん大きくなった。僕にもCTOという大層な肩書がついた。とにかく何でもやった。自分でせっせとコードを書いていた時期もあったし、トレーニングの講師もやった。マーケティングの手伝いでイベントがあればそれにも駆り出された。

一番面白かったのは、営業の手伝いだった。大口の案件を手掛けているデキる営業の人は、戦争を指揮する将軍だ。顧客の会社の状況、その中の人間関係。みんな把握していて、こういう風な順番で攻略していくと契約にたどり着くという作戦を立てている。そのなかで僕という大砲が役に立つ場面があれば、僕が呼ばれる。戦況を説明され、あの山に一発ぶち込んでくださいと依頼される。Jenkinsを作った僕にしか出来ない役割というのがある。

Sunでは営業の人など見たこともなかった。CloudBeesで初めて目にする営業の人達からは、学ぶことがいっぱいだった。技術者の仕事に奥深さと美意識があるように、営業の仕事にもまた奥深さ、美意識、そして色々な方法論があった。プロの仕事を間近で見るというのは、大変気持ちのいいものだ。良いものを作るということと、売れるものを作るということには、大事な差があるという事を学んだ。

お客も社員も世界中に散らばっている七つの海を股にかけた会社だったので、文字通り世界を飛び回った。地球一周の出張も何度もした。どの街に行っても、僕のソフトウェアを使っている人達がいて、僕を暖かく迎え入れてくれた。色々な言葉で乾杯をした。自分の作ったものがこんなにも育ち、こんなに広く根を張っているのか思い、胸を熱くした。

自分について言えば、会社が日々大きくなっているので、何かの仕事に慣れてきたかなと思うと、その仕事はすぐに誰か別の人の仕事になり、自分は新しいことに手を出さないといけない。万の道のプロに囲まれながら、自分だけはいつも不慣れな仕事をしている。そういう状況に劣等感を感じる日々も多かった。それに比べれば、技術者の時は、自分のフィールドは固定されており、深く深くそこを掘っていけばよかった。プログラムを書く腕については世界でもトップクラスだなと自信があった。それとは大違いだ。

しかし、いつのまにか、自信がないことでも、やっていくと面白さや奥深さが見えてくるのだなと感じられるようになっていた。新しいことに手を出して理解を深め解像度を上げていくのが面白くなっていた。

曲がり角

どうして、CloudBeesを辞めようと決めたのか、理路整然とは説明できない。一年位かけてその思いが段々強くなり、やがて、その時が来たのだという事だけがはっきりと分かった。

社長に辞意を伝えるために、雪の降るジュネーブの空港に降り立った。冬のヨーロッパは昼が短く、人々もどこかよそよそしい。ここには何度も来ているが、いつも来る時は同僚が一緒だった。今回は一人。辞意を伝えた時の社長の表情が忘れられない。驚愕と後悔と冷静さがあんな風に混じる事があるのだと知った。

次に何をするか、まだ決めてはいなかった。まずは辞めて、心にスペースを作れば、自然と次の面白い事を心が見つけてくれるだろうと思っていた。辞めたという事が世界に伝われば、面白い仕事が向こうから降ってくるかもしれない、という期待もあった。

翌日、二人で雪山の上の小さな古いレストランを訪れた。彼は、僕が次の仕事を探すまでの助走期間と、会社が僕なしでやっていくための準備期間を兼ねた、非常にありがたい移行計画を用意してくれていた。暖炉の火を見ながら、その話をし、またCloudBeesの未来について話し合った。

何をやるか、何も決めていなかったが、何とかなるはずだと思っていた。根拠のない楽観。

だが、あるべき根拠とは、なんだろうか。Oracleを辞めて独立した時、自分では入念に調査をしたつもりだったが、今から考えてみると全く見当違いだった。しかし、蓋を開けてみたら、そこにあったのは、信じられないようなCloudBeesでの10年だった。全く間違った理由で、全く正しい選択をしてしまった。

正しい選択?そもそもそんなものがあるのだろうか?別な道を選んでいたら、何か良くない事が起こっていた?もう、そうは思えなくなっていた。何を選んでも、その曲がり角の先には、何か別な形で意義ある時間が待っているようにしか思えない。

不完全で偏った事前の知識で、どうなるかわからない未来について合理的な検討をし、長期的に良いと思われる選択肢を選ぶ事など、ほとんど何の意味もないのではないか。ただ、縁と、自分の力と、世界の善意を信じて、心惹かれる方に向かえばよい。清水の舞台からどんどん飛び降りていく、ただそれだけのことだ。自分の知識が限られているということさえ謙虚に認められれば、それが実は一番合理的な選択だ。馬鹿の考え、休むに似たり。

思えば、若い時は、言語化こそ出来ていなかったが、行動原理は正しかったのではなかったか。そうでなければ、一夜にして結婚して渡米などと、どうしてそんな事が出来ただろう。

Launchable

ここ4年は、Launchableという新しい会社をやっている。色々模索した結果、結局、データの力、AIの力を使って、テストの効率的な実行・失敗の分析などを手掛けている。

www.launchableinc.com


コロナ禍のテックバブルで、アメリカでの技術者採用がうまくいかず、思い切って日本にエンジニアリング・チームを作ることにした。僕は幸い日本にも繋がりがあるから、優秀な技術者がたくさんいるのは知っているし、そういう人達の中には目線が海外を向いている人が結構いる。僕自身、渡米したことで大きくキャリアが広がった。そんな機会をもっと多くの日本の技術者に提供したい、そんな思いも常々持っていた。採用が難しいという苦境を、僕の宿願を叶える好機だと思うことにした。

まだ小さな会社だが、アメリカと日本に跨ったグローバルな組織を作った。全員リモートで働けるように、会社の文化も意図して設計した。会議ではなく、書く事を大事にする。そうすることで、時差と言葉の壁を打破する。時間や場所が自由になることで、パートタイムの人も活躍できる職場を作る。共同創業者と一緒にではあるが、そういう事がちゃんと出来るようになっていた。CloudBeesで色々劣等感を感じながらも手を出した事が、ちゃんと自分の血肉になっていた。

年に二回、世界のどこかにみんなを集めて、一週間だけ一緒にワイワイやる。そうやってアメリカ人スタッフと日本人スタッフの間に橋が架かっていくのをみると、とても嬉しい。

Launchableを作った時、共同創業者と話した。何をやるかも大事だが、誰とやるかはもっと大事だ。そう感じられる仲間を少しずつ採用してきた。今も、技術者を募集している。海外のearly stageテックスタートアップで働く貴重なチャンスだと思っている。いつかは、Launchableを踏み台にしてどこかにドアを開き、次の機会に巣立ってくれればいいなと思っている。僕がCloudBeesの10年でそうしたように。

Launchableがこれからどうなるか、正直分からない。会社はいつか潰れるという事はSunで学んだ。潰れたら失敗なのではない。潰れるまでに何が出来るかだ。長さの問題ではない。密度の問題だ。今の環境を、手持ちの札を活かして何をするかだ。Sunでは何かを深く掘っていく機会を得た。CloudBeesでは新しい事にどんどん手を出していく機会を得た。Launchableで得ている機会は、敢えて言うならば、全ての責任を引き受けるという機会、だろうか。今はまだよく分からない。だが、説明は、理解は後でいい。

思うことをやっていくまでだ。すると、思い通りにいかない。手を替え品を替える。試していくうちに、少しずつ様子が分かってくる。自分に力が、自信が、付いてくる。未知のものに立ち向かう自信が。今までだって何とかなってきたのだから、何とかなるはずだ。同じ無知と無謀でも、若い時とは大違いだ。

こういう風に考えている今の僕には、不安のようなものはまるでない。とても自由だ。旅が面白いのは何が起こるかわからないからだ。

明日は月曜日だ。仕事に出るのがとても楽しみだ。