記事AI要約
スクラムマスターとしての成功にコミュニティ活動はなぜ欠かせないのか——天野氏と川口恭伸氏による往復書簡では、この問いを実体験から掘り下げます。両氏はコミュニティでの活動が単なるネットワーキングではなく、組織変革に必要な「場づくり」の実践そのものだと論じます。川口氏は「押しつけない」「よいやり方を共有する」というコミュニティ運営の哲学を語り、天野氏は「原動力になり場を作る」「創発的やり取りを最大化する」「貢献に感謝する」という3つの柱を提示。『伽藍とバザール』や『Fearless Change』のパターンも引用しながら、コミュニティ活動が培う「感覚的な学び」こそが組織にアジャイルな文化を根付かせる土壌になると結論づけています。最後に読者へ、コミュニティ参加から社内実践への具体的な橋渡し方法を提案しています。
「組織の中でスクラムマスターとして成功するために、コミュニティ活動は必要不可欠だ」
これは私(天野)が今までのスクラムマスター経験を通じて確信していることです。一見、コミュニティ活動は人脈作りや知識共有のための副次的な活動と捉えられがちです。しかし、私の経験では、それは現場で直面する様々な課題を乗り越え、組織にアジャイルを浸透させるための極めて実践的な学びの場となってきました。
本日は、日本のアジャイルコミュニティを牽引する存在として知られる川口恭伸さんとの往復書簡をお届けします。川口さんは、アギレルゴコンサルティング株式会社のシニアアジャイルコーチとして数々の組織変革を導く一方で、一般社団法人スクラムギャザリング東京実行委員会の代表理事として、日本のアジャイルコミュニティの発展に多大な貢献をされています。
この対談では「スクラムマスターにとってなぜコミュニティ活動は重要なのか」というテーマのもと、これまであまり語られてこなかったコミュニティ活動の実践的価値について、私たちの経験を交えながら掘り下げていきたいと思います。

天野 祐介(あまの ゆうすけ)
週3日サイボウズのスクラムマスター、その他は個人でアジャイルコーチなどしています。東京→仙台移住しました。スクラムフェス仙台実行委員会。すくすくスクラム仙台運営。社内外のチームをお手伝いしながら、最高のプロダクトを作れるチームワークを探求しています。
note:スクラムマスターの頭の中

川口 恭伸(かわぐち やすのぶ)
YesNoBut株式会社 代表取締役 / アギレルゴコンサルティング株式会社 シニアアジャイルコーチ。アジャイル開発やDevOpsの普及に尽力し、一般社団法人スクラムギャザリング東京実行委員会、一般社団法人DevOpsDays Tokyoの代表理事を務める。監訳・共訳書籍に 『 Fearless Change 』『ユーザーストーリーマッピング 』『 Joy, inc 』などがある。
From: 川口
ご紹介ありがとうございます。いきなり宣伝ですみませんが、YesNoBut株式会社というのを設立しまして、そちらでもトレーニングと組織向けコーチングを細々とお受けするようになりました。完全に自分の会社というのは初めてなのでドキドキしています。お仕事お待ちしております。
主にやっていることは、海外トレーナーによる認定スクラム研修のサポートとか、組織にアジャイルをどのように定着させようかと考えている方たちのサポートとか、コミュニティのカンファレンスの場作り、あと、全国を旅してスクラムフェスの落穂ひろいをしたり、登壇したりもしています。海外で発表されている本や講演を日本語で紹介するのが芸風です。
企業の新卒研修もいくつかお手伝いしていて、エンジニアやIT部門向けの PBL ( Project Based Learning )のコンセプト作りや、生き抜くスキルを小噺する、その後企業内で活躍できるような学びの場の設計、みたいなことをやっています。
プロダクト開発の経験が長いので『ユーザーストーリーマッピング』を監訳しています。カンファレンスや研修をどのように価値を出していくかを、ユーザー目線で調べたり、プロダクトとして考え、運用を改善し、継続性を持たせていく、というのをよく考えています。
組織へのアジャイル文化の普及については『Fearless Change』の翻訳プロジェクトもやりまして、いまだにアジャイルコーチや組織導入を考える皆さんのバイブルのような感じでご活用いただいています。
コミュニティとの出会い、遍歴
From: 天野
トレーニングでも書籍でもお世話になっています。まずは、それぞれのコミュニティとの出会いについて共有していきたいと思います。
私がスクラムマスターとしての活動を始めたのは2016年頃でした。情報を求めてアジャイル関連のカンファレンスやコミュニティイベントに積極的に参加・登壇するようになり、川口さんが運営されているRegional Scrum Gathering Tokyo(RSGT)には2017年から欠かさず参加しています。2021年に仙台へ移住してからは運営側としても活動するようになり、現在はスクラムフェス仙台の実行委員とすくすくスクラム仙台という月例勉強会の運営をしています。
※スクラムフェス:RSGT参加者の有志で始まった地域アジャイルカンファレンス。札幌、仙台、金沢ほか日本各地で開催されている。川口さんはこれらのスクラムフェスの多くにも関わっている。
実は、最初の頃はコミュニティ活動に苦手意識を持っていました(笑)。私は比較的早い段階で登壇や情報発信の機会に恵まれ、「知見を提供する側」として関わることが多かったのです。スクラムマスターとしては"早熟"だったのかもしれません。そのせいか、他の参加者に対して無意識のうちに「より高度な実践者であるべき」というプレッシャーを感じ、なかなか対等でオープンな関係性を築けませんでした。
とはいえ、自分の持つ知識や経験は、コミュニティの先達がいたからこそ得られたものです。だからこそ、自分の知見を共有し、コーチとして他者の悩みに寄り添うことには大きな価値があると感じ、参加者としてコミュニティとの関わりを続けてきました。
転機となったのは仙台への移住です。運営側として関わるようになり、「健全なコミュニティを育むことは、スクラムマスターの成果(アウトカム)そのものだ」という重要な気づきを得ました。この発見は、自分自身のコミュニティとの関わり方を大きく変えることになりました。それまでの苦手意識も自然と消えていきました。 これが、冒頭の「組織の中でスクラムマスターとして成功するために、コミュニティ活動は必要不可欠だ」という確信に繋がっています。
川口さんは、どのようなきっかけでコミュニティと出会い、どのようなモチベーションでこれまで活動を続けてこられたのでしょうか。
From: 川口
まず私のコミュニティ遍歴を少しお話しするといいでしょうか。2003年くらいから会社のお金で Microsoft TechEdに参加するようになり、そのあと言語系コミュニティを知りまして、RubyKaigi、YAPC、LLイベントにたまに参加するようになりました。2008年に会社の同僚の皆さんとXP祭りに参加してみて、そこでスクラムと出会います。2009年には自社のミーティングスペースを確保して「すくすくスクラム」の開始を手伝い、米国のAgile 2009に初参加、その報告をXP祭り2009でしたのが、大きめの初の登壇になると思います。Ustreamでの動画配信もその頃やり始めました。そのあと、XP祭り、勉強会カンファレンスの運営に入るようになり、2011年にスクラムの創立者の初来日を実現するInnovation Sprintの実行委員長をしました。同年10月から、現在まで続くスクラムギャザリング東京の実行委員を続けています。企業開催のカンファレンスとしては、2012年から2017年まで、楽天テクノロジーカンファレンスの実行委員をして、社内の技術コミュニティの皆さんと運営を盛り上げました。
…という感じで、奇しくも天野さんが参加された、RSGTや、すくすくスクラムの源流のところに、少なからず貢献をすることができたのかなと思います。結果的に天野さんがコミュニティ活動に積極的に関わられるようになったので、社会的にはよい貢献をしたな、えっへん、と思います。直接的には天野さんに何か作用している自覚はないのですが、まんまと運営側に回っていただいて、ありがとうございます(笑)
なんでこのような活動をしているの?とよく聞かれるのですが、自分でも理由はあまりわかっていません。ただ、自分が貢献できそうな小さな課題を見つけたら、ちょっとやって、皆さんに活用してもらえたらいいな、と思っている部分はあります。これはRubyの父まつもとゆきひろさんのお話や、Linuxコミュニティを観察した『伽藍とバザール』、また米国のアジャイルコミュニティの素晴らしい人たち出会って、徐々に面白さを学んできた部分だと思います。
人間ひとりのできることには限界があるから、
まあ、一部分だけしかできない、と。
そうすると、あいつが言ってたのに
できてないところがここにあるぞ、とか、
つくったというけど欠陥があるぞ、とか、
毎日毎日動きを続けていると、
適切な大きさの問題が
つぎからつぎに生まれるんだそうです。
で、それさえ生まれれば、
インターネット上にはそれを解決する人が現れる。
こんなことをいうと、インターネットの性善説を信じている理想主義者みたいに思われるかもしれませんが、個人的にはあまり大きな世界と関わるより、スクラムフェスの知り合いのような、とても小さな集団で運営をしている皆さんのところを飛び回って、花粉を届けるのが好きです。たまにスイッチが入ると、ちょっとしたツールを作ってみたり、仕組みを考えたりします。例えば、スクラムフェスでDiscordにチェックインする「mogiri」というアプリや、10を超えるイベントを自律的に運営できるようにするキャッシュフロー管理の仕組み、iPadを用いてカンファレンスのZoom配信をする仕組みなどは、最初の原型は私が作り、コミュニティ皆さんと一緒に改善していっているものです。
こうしたコミュニティ活動の重要な点は、みんなボランティアで参加していることで、特に人的リソースが限られることです。できる限り自律的に、組織内のボトルネックを作らないように運営する必要があります。そうした側面は、まさにスクラムマスターのスキルセットが大きく生きるところではないかと思います。Zuzi Sochovaさんの『スクラムマスターの道』のモデルでいうと、「レベル1: 私のチーム」を注視しながらも、全国を飛び回って「レベル2: チーム間の関係性」を支援し、「レベル3: システム全体」の健全性を気にしている、ということに当たるかなと考えています。
天野さんも、スクラムマスターの考え方をうまく使って、スクラムフェス仙台のスタッフの皆さんと活動されているように感じています。普段どんなことを考えているのでしょうか。
コミュニティという「場」を支えるもの
From: 天野
こうしてコミュニティ遍歴を見ると、川口さんの掌の上で踊らされているようです(笑)
私も元はエンジニアだったので、UNIX哲学や各自が手を動かして貢献するOSSの世界に共感しており、ベースとしてそのような価値観を持っています。特に『伽藍とバザール』で語られる「早めにリリースし、頻繁にリリースし、ユーザーの声に耳を傾ける」というバザール方式の考え方は、コミュニティ運営にも通じるものがあると感じています。
改めて考えてみると、私がコミュニティ運営で大切にしている3つの柱があります:
1. 原動力になり場を作る
当事者として楽しいからやる、やりたいことをやるという内発的な動機を大切にしています。コミュニティには、熱意を持って率先してイベントを推進し、メンバーを結びつける存在が必要です。自分が熱意を持って取り組めるテーマを見つけ、そこに皆が参加できるようにし、一緒に楽しむことを大切にしています。同時に、他の参加者の「やりたい」という声には全力で応えるようにしています。例えば、すくすくスクラム仙台では、誰かが「来月こういうことやりたい」と言えば、それをそのまま採用することが多いです。
2. 計画を最小化し、創発的なやり取りを最大化する
これはよく「無理しない」「やることを減らす」「スコープを削る」「持続可能なやり方を維持する」などと言われていることです。みなさんお仕事や家庭がある中で、限られた時間を割いて参加してくれています。毎月の勉強会にせよ年に1度のカンファレンスにせよ、あれこれと想定して事前準備をするほどメンバーの負担は増え、当日創意工夫をする「遊び」も減ってしまいます。その代わりに、アジャイルの原則やコミュニティの行動規範に立ち返り、その場での判断を尊重します。その際の判断基準として念頭に置いていることは、運営に関わるメンバーの満足を最も優先することです。
3. 貢献には尊敬と感謝を
コミュニティはボランティアで成り立っており、通常の会社組織で用いられる金銭や評価のような外的な報酬はありません。ましてや、就業規則や上下関係のようなルールで行動を制限することはできません。コミュニティで私たちが提供できるのは内的な報酬だけです。そのため、メンバーの貢献には最大限の尊敬と感謝を伝えることが重要だと思っています。
川口さんは、これまでの経験から、コミュニティ運営における具体的な工夫や、特に大切にされていることはありますか?
From: 川口
天野さんが挙げられた3つの柱は、野中郁次郎先生の「場」の考え方を実践されているんですよね。野中先生は海外で「場」について説明するとき、「要するにBARなんだ」とジョークを言われるそうですが、天野さんもスクラムフェス仙台で地元のクラフトビール屋さんに本物をサーブしていただくなど、その「BAR」的な要素もしっかり押さえられています。リラックスした雰囲気の中で、フラットな対話が生まれる。実は、野中先生はそうした考え方、知的コンバットを体系化したのがジェフ・サザーランドのスクラムだと捉えています。ベトナム戦争の偵察機F4ファントムに2人で乗り、護衛もなく危険と隣り合わせの孤独なミッションをこなしてきたジェフさんならではの発想なのかもしれません。そんな「場」づくりが、コミュニティを育てる重要な要素になっているんですよね。
ただし、場を作る際には「押しつけない」ということを意識しています。無理に管理や統制をかけるのではなく、むしろ自然な流れを大切にする。やるべきことより、今できていることを重視して、そこから学んでいく。これは、アジャイルマニフェストの「プロセスやツールよりも個人と対話を」「包括的なドキュメントよりも動くソフトウェアを」という価値観とも重なりますよね。
実際の工夫としては、明文化されたルールを最小限に抑え、代わりに「よいやり方」を共有することを重視しています。野中先生が「ソシアルの原点はペアなんだ。俺とお前は違うよね」とおっしゃるように、みんなで話し合ったり、考えたりすることで、それぞれの違いを学び、全体としてうまくいくように知恵を出し合って、手を動かしていくんです。ヒーローとかスタンドプレーはあまりいらなくて、みんなで心地よい場を作るために、できること、気づくことをやっていただきたい。
これらの工夫の根底にあるのは、「自律性」と「信頼」です。コミュニティの参加者一人ひとりを信頼し、自律的に動ける環境を整えることで、持続可能な運営が可能になります。天野さんがおっしゃるように、外的な報酬や規則に頼らず、内発的な動機づけを大切にすることが、コミュニティの健全な成長につながるのだと思います。
コミュニティ運営には、自律的な組織運営に役立つ知恵が詰まっている
From: 天野
野中郁次郎先生が提唱される「場」の概念――「共有された動的文脈(shared context-in-motion)」は、コミュニティ活動の本質を捉えていると感じます。人々が集い、対話を重ね、実践を共有することを通じて、知識は具体的な文脈の中で生きた形で伝播していきます。コミュニティという「場」では、参加者たちが互いの経験や振る舞いから学び合い、自らの実践を通じて「場」への理解を深めていく営みが生まれます。
川口さんのお話を伺っていると、コミュニティ運営で意識されていることの多くが、組織でスクラムマスターとして成果を出す上でも重要な要素だと気づきました。スクラムマスターの真の成果とは、組織の中に健全な「場」を作り出すこと。つまり、人々が自律的に学び、成長し、協働できるコミュニティを育むことにあるのではないでしょうか。
企業を単なる組織構造としてではなく、様々な「場」の有機的な集合体として捉え直すことで、アジャイルな文化を根付かせる新たなアプローチが見えてきます。それは、トップダウンの施策や形式的なプラクティスの導入ではなく、現場に根ざした「場」づくりを通じて、組織全体にアジャイルなマインドを浸透させていく道筋です。
川口さんは、コミュニティ運営で培った経験やマインドセットを、組織での活動にどのように活かされているのでしょうか?
From: 川口
組織でもコミュニティでも、新しく参加される方をどう迎え入れるかは重要なポイントだと思います。例えば、新しく入られたスタッフへの説明文書やマニュアルみたいなものがないので、戸惑う方もいらっしゃいます。でも、まずは他の人がやっていることを観察して、どの辺から手伝うとみんなが楽になりそうか、そこを考えながら学んでほしいと思うんです。これこれをやれば仕事が終わる、というリストが、最小限しかないので、そういう意味では少し敷居が高いかもしれませんが、一方で、これをやってくれないと困る、というプレッシャーもありません。できる限り貢献ベースで考えていかないと、ボランティアで休日や夜を潰して参加してくれてるスタッフの皆さんが、疲れてしまう。慣れているスタッフの離脱が一番痛手ですので。
新卒研修でよく強調するんですけど、社内に入って学ぶべき最重要なことの一つが、よい質問相手、社内の有識者を見つけて信頼関係を築いていこうということです。年上に限らず、同期や後輩にも有識者はいます。野中先生のクリエイティブ・ペアの話にも通じますが、そうした人間関係が、その次の学びの機会を作っていき、正統的周辺参加で徐々にコミュニティや組織のコアの役割を担えるように成長させてくれるのだと思います。
※正統的周辺参加: 新しい学習者がコミュニティに徐々に参加しながらスキルや知識を習得し、中心的なメンバーへと成長していくプロセス。
まあ、新しいスタッフに説明がないという話は、十分な説明を作ってあげる余裕がない、ボランティアゆえのリソース不足の言い訳にしている面もありますが(笑)、一方で、「わかりやすい説明を与えてしまうことで、バブル的理解を産んでしまう」点も意識しています。こちらは三宅なほみ先生の『教育心理学概論』から学んだ用語ですが、バブル的理解というのは、一旦は分かったような気がするんだけど、それについて深く考えて試行錯誤したり、他の知識と結びつけたりを十分にしていないので、応用できない学びになってしまうということです。
三宅先生はまた、ペアで仕事をする中で「より分からないほうの人が、より分かっているほうの人に質問をする」ことが重要だとも指摘しています。そうすると、分かっている人が、もっと優れた言語化を考えるきっかけになる。これは建設的相互作用と呼ばれるとても有名な話です。新しいスタッフの方が、素朴な質問をしていただくことで、コミュニティ内の言語化がさらに進んでいくんです。
そうしてスクラムのコミュニティに参加してくれている人々が、みんなが考えて、言語化を進め、少しづつ信頼を築いて、スクラムやアジャイルのやり方にとどまらず、皆さんの組織や、人生や社会をより良くしていってほしい、と考えています。
コミュニティで得た学びを組織に広めるには
From: 天野
コミュニティに参加する人々が、それぞれの所属組織や周囲の環境をより良いものへと変えていけるようになる——この可能性に、私はすごくワクワクしています。
コミュニティ活動は、組織に働きかける上で非常に実践的な学びの場となります。しかし、実際にコミュニティを運営してみて気づいたことがあります。それは、コミュニティ運営のコツは、極めて「感覚的」な要素が大きいということです。この感覚は、通常の組織の中の活動だけでは十分に培うことができません。豊かなコミュニティの中で実際に活動し、実践を重ねることでこそ、身体知として自分のものになっていくと考えています。
しかし現状では、コミュニティをこうした組織運営における実践的な学びの場として捉える視点は、まだ十分に広まっているとは言えません。コミュニティでの参加や運営を通じて得られる知見を、組織に広げていくにはどうしたらいいでしょうか?
From: 川口
それはとても難しい問題ですね。新しいアイデアは往々にして、体験しないとわからない、という性質を持ちます。プログラミングしたことがない人に、プログラミングの難しさや、楽しさ、限界や可能性を感じてもらうことは難しいでしょう。ですから達人たちは、一生懸命その敷居を下げようと様々な努力を傾けてきました。
一方で、体験をしないで「レッテルを貼ってすます」というのも、よくやってしまうもので。三宅なほみ先生が示した「バブル的理解」については触れました。人間は、わからないことに埋もれても生き残っていくための心理的機序として、「だいたいわかった」で安心する機構が備わっています。何でもかんでも考えていられない。
これは認知心理学者ダニエル・カーネマンが『ファスト&スロー』で示している、システム1とシステム2の話に通じます。システム1は人間が自動的に判断して処理できる部分です。深く考えなくても、ご飯は食べられるし、駅の階段を登ったり降りたりできます。ほとんどの部分は、このような感覚的な反応で過ごしています。しかし、深く考えて判断すべきときもあり、それはシステム2という仕組みで判断されます。問題は、システム2はそれほど効率的ではなく、複数のことを同時に考えられないところです。
人間は、わかるまでにちょっと時間がかかるんです。自分にとって至極当然のことでも、同じことを他の人にも感じてもらうためには、体験してもらう必要がある。でも、体験してもらうためには、まず何か不明なことを前にして、ちょっと我慢して付き合う、といった論理的判断をしてもらう必要があるでしょう。これが難しい。論理的に説得しても、心の声が危険信号をかき鳴らし、より強固に論理的に否定される場合もあります。人間はシステム1の方が処理能力が高いので、感覚で判断してしまうのです。実際のところは、それを直接観察することはできないので、さらに厄介なのですが。
そこで、組織に新しいアイデアを普及させるときに、これまでの経験者たちが、うまくいった行動をまとめたものが『Fearless Change』という本です。組織内に新しいアイデアを普及させる際に、トップダウンで急速に行うと、表面だけなぞってやったことにしたりする人が出てきて、流れが変わるとすぐ元に戻ってしまう、と指摘しています。そうではなく、現場からボトムアップに必要に応じて着実に変化を身に着けていき、それをトップが支援することを推奨しています。そこで重要になるのが社内のコミュニティで、その活動を進める人たちに役に立つ「パターン」をまとめています。
パターンというのは、建築家クリストファー・アレグザンダーが提唱したアイデアで、建物を立てる際に、施主・利用者にとってわかりやすい表現で、実際は建築家や建設業者の専門的な知識が必要な人にも伝わるように調整された、「こうあったらよい」を表現した小さな情報のピースです。なんだよ建築家かよ、と思うかもしれませんが、彼は世界で初めてCADを使った人としても有名で、コンピュータのデータ構造についても理解していたと思われます。
建築設計をするときに、施主や利用者がいくつものパターンを組み合わせて、全体的にどういったものが必要で、特に重要と考えるものは何かを表現するようにします。この全体像をパターン・ランゲージと呼びます。建築家もそれを引き出すようにインタビューしていきます。専門家と利用者の間の共通言語を作って協調作業をしていくんです。『Fearless Change』はこの考え方になぞらえて、新しいアイデアを組織に普及させる手法をパターンとして表現しました。現状をみんなで分析して、次にどういうアクションが取れそうかを、先人が書いてくれたパターンを手掛かりに考えることができます。書籍には48のパターンが記載され、続編ではさらに15パターン追加になっています。
最も基本的なパターンとして以下の5つが紹介されています。
- エバンジェリスト(1) [Evangelist]: 新しいアイデアを組織に導入しはじめるなら、あなたの情熱を共有するため、できる限りのことをしよう。
- 小さな成功(2) [Small Successes]: 組織変革の取り組みをすすめるなかで、待ち受ける困難や膨大な作業に押しつぶされないよう、ほんの小さな成功でも、きちんと祝おう。
- ステップバイステップ(3) [Step by Step]: 目標に向かって一歩一歩進めていくことで、組織変革の膨大な作業へのイライラを和らげよう。
- 予備調査(4) [Test the Waters]: 新しい好機が訪れた際に、興味があるかどうか調べるために、本書のパターンを利用して結果を評価しよう。
- ふりかえりの時間(5) [Time for Reflection]: 過去から学ぶために、うまくいっていることや改めるべきことを評価するための時間を、定期的に確保しよう。
本来、パターンは数ページ分の文章になるのですが、これはその省略形です。しかし、これだけでも役立つアドバイスになるのではないでしょうか。すでに活動している人にとっては、いくつかはすでに取り入れてきたと感じるものもあるかと思います。パターンというのは、様々な人や状況の中で、繰り返し発生した経験を書き出したものですので、自分なりに考えてやってきたことが、実はパターンに書かれているのと似ていた、というような偶然の一致がよく起こります。
From: 天野
『Fearless Change』は本当に何度もお世話になりました。私も最初は「ブラウンバッグ・ミーティング」などから実践し、なかなか納得を得られない人に対するアプローチとして「懐疑派代表」のようなパターンを知って目から鱗が落ちました。まさにカーネマンの言うシステム1の直感的な抵抗を和らげ、システム2の理性的な納得を引き出す実践的な知恵ですね。
- ブラウンバッグ・ミーティング(7) [Brown Bag]: 日常のランチタイムを、新しいアイデアを聞くための手軽で気軽な場として活用しよう。
- 懐疑派代表(44) [Champion Skeptic]: あなたのアイデアに懐疑的なオピニオンリーダーに、「公式な懐疑派」の役割を演じてもらうよう、協力をお願いしよう。彼らの懐疑的な姿勢を変えられないとしても、あなたの取り組みを改善するために、その意見を活かそう。
最近、アジャイルコミュニティにマネジメント層や経営層の方々が増えてきていることは、とても心強く感じています。これまでエンジニアやスクラムマスターが中心だったコミュニティに、組織全体を見渡す視点が加わることで、より広い文脈でアジャイルの価値を語り合えるようになりました。組織の中心にいる人々がコミュニティに参加することで、徐々にコミュニティの価値観と組織の価値観が近づいているのかもしれません。
今後、こうしたコミュニティ感覚を持った人たちが実際に組織を運営する立場になっていくことを想像すると、ワクワクします。トップダウンとボトムアップを適切にバランスさせ、人々の自律性を尊重しながら組織全体を導いていく——そんなリーダーシップが広がっていく未来は、きっと素晴らしいものになるでしょう。
読者の皆さんには、ぜひコミュニティに参加していただきたいと思います。まずは勉強会やカンファレンスに参加するところから始め、慣れてきたら積極的に質問や感想を共有してみてください。そして、機会があれば運営にも関わってみることをお勧めします。例えば、地域のミートアップで発表してみたり、カンファレンスのボランティアスタッフとして参加してみたりするのは、自分自身の視野を広げる絶好の機会になります。
もちろん、いきなり大きく飛躍する必要はありません。段階的な参加を通じて、コミュニティでの学びと社内での実践を橋渡ししていくことが大切です。例えば、次のようなやり方が考えられます:
- コミュニティで学んだアイデアを社内の勉強会で共有する
- 外部コミュニティの運営方法を参考に、社内コミュニティを立ち上げる
- コミュニティで出会った人々をゲストスピーカーとして社内に招く
- 社内の課題をコミュニティの場で(守秘義務に配慮しつつ)相談してみる
コミュニティで得た学びは、組織を長く生きる上で大きな糧になるはずです。形式知としての情報だけでなく、人々との対話や協働を通じて得られる暗黙知こそが、私たちの実践を豊かにしてくれます。そして何より、同じ志を持った仲間と共に学び、成長していく喜びは、この旅を続ける原動力となるでしょう。
私たちの組織をより良くする旅は、まだ始まったばかり。これからも皆さんと共に、スクラムやアジャイルのやり方にとどまらず、皆さんの組織や、人生や社会をより良くしていくための道を模索していきたいと思います。