40歳を超えてエンジニアから異職種に挑戦。唯一無二を突き詰めて見出した、自分の価値

自分の価値は何かを突き詰めることで見出した、職業プログラマ以外の道

こんにちは。牧大輔@lestrratです。これまで自分の会社を立ち上げたり、ライブドアやLINE、それからHDEなどでプログラマとしてコードを書く傍ら、並行してJPA(Japan Perl Association)を組織してPerlコミュニティのイベント「YAPC::Asia Tokyo(以下、YAPC)」を運営したり*1、より新しいカンファレンスとして「builderscon」の運営に携わってきました。

そして、およそ1年前(2019年2月)から、職業プログラマとしてコードを書く仕事を辞め、株式会社メルカリで、主に会社関連のイベント運営を主眼とした活動を仕事としています。

「牧さん、プログラマ辞めるってよ」 - Daisuke Maki - Medium

プログラマにとってカンファレンスや大規模イベントは身近な存在で、エンジニアをしながら大小さまざまなイベントの運営に携わる方も多いでしょう。しかし、専業にする人は少ないのではないでしょうか。コミュニティイベントの運営で、スポンサー集めや海外ゲストとの交渉といった面を中心に10年以上携わってきた後、なぜ今のポジションに就いたのか、僕なりの軌跡をお話ししてみます。

技術もイベントも分かることが、唯一無二の価値

若い頃の自分を振り返ってみると、ロックスター(のようなプログラマー)になりたいと思っていました。だから、たくさんコードも書いてきましたし、なれると考えていました。

しかし、40歳を超えていろいろ考えてみると、どうやら自分はそうではないということが、さすがに分かってきました。この先もプログラマーをやっていけないことはないけれど、果たしてそれで「唯一無二」かと自問自答すると、残念ながらそうではない。自分が思う本物のロックスター、例えば宮川達彦@miyagawaさんや、奥一穂@kazuhoさん、ああいう人は技術的な素養の上に、ゼロから何かを生み出す創造力を備えているからスターになれてるんだと僕は思っています。

それでは、自分の「唯一無二」の価値とは何だろう? と考えたとき、技術のこと、エンジニアリングのことを理解しつつ、イベントを運営し、お金の流れについても管理できる。そういう人って周りを見渡してもあまりいない。

いろいろなイベントを運営してきて、「もういやだ、他の人に任せたい」と思うこともよくよくあるのですが、「やりたい」と声を上げるモチベーションのある人はなかなかいませんでした。もしかすると、技術もイベントも分かっていて、両方のタスクができる人って少ないのかもしれない。そこに気付けたことが、キャリアをピボットした大きな理由です。

もちろんコードを書くことも好きですが、それは手段でしかありません。ものや人を動かすには、プログラム以外のいろいろな社会の仕組みを知っていないといけないし、それらをベースにして物事が動く仕組みを作っていかなければならない。そういった作業を苦手とする人は多いと思いますが、僕は自分で会社を運営した経験もあって、そのような仕事がそんなに苦にならないんです。

今の会社には、まだそのものずばりのいわゆるDevRelというポジションはないのですが、エンジニアのキャリアを支援する部署内の外向けに情報を発信する立場にいて、会社としての大規模カンファレンス開催の準備をしています。全体としては、会社にいるエンジニアの人たちが成長したり、アウトプットを出していくための施策を整え、キャリアをサポートしていくための部署という役割です。

自分のやりたいこととカンファレンスの運営を合致させる

2016年にbuildersconを立ち上げたときには、明確な目的意識がありました。その前年まで携わっていたYAPCは、基本的にはPerlという言語のためのイベントでした。これはこれで大好きなんですが、1つの言語、1つの文化、1つのコミュニティに縛られずに、もっと面白いことができないかなという思いがありました。

Buildersconやりませんか? - Daisuke Maki - Medium

Web業界の将来に懐疑的な思いを抱いたことも理由の1つです。Web技術はこの先コモティディ化していくのではないか? このままで、自分の子供たちにも進ませたいと思えるような業界にならないのではないか? そういう思いから、Webだけを仕事にしていたら普段会わないようなAIやロボットといった違う分野からユニークなゲストを、10年後、20年後を見据えて毎回呼んできました。

そういう「自分のやりたいこと」と合致する部分がカンファレンスの方にあるので、ここまでやれてきたんだと思います。こういう大規模なカンファレンスが、多くのエンジニアやコミュニティのためになっている側面はもちろんありますが、そういうきれいな話だけではありません。まず、自分にとって楽しいかどうか。

仕事では、さまざまな人の思惑を汲んだり、決められたルールやフレームワークに沿って実施しなければいけなかったりしますが、カンファレンスやイベントを作るときには、何より自分の世界観を実現できる。自分のペースで「ここにこだわって、こういうものを作りたい」を実現できるのは楽しいですよね。

もちろん、技術的にも楽しめました。buildersconの公式サイトでは、日本でまだほとんど実績がなかった時期にKubernetesを使ってカンファレンス用のシステムを組んでいました。まだGoogle Container Engineと言っていたGKE(Google Kubernetes Engine)を触らせてもらえないか、直接Googleの知り合いに頼みに行ったりもしました。

自分たちで作らざるを得なかったので、必然的にカンファレンスの仕事を通して技術的にも成長してきた側面はあります。普段の技術的なフラストレーションの発散にもなっていたかもしれません。

イベントを運営する仕組みを実装する

誤解を招く言い方かもしれませんが、カンファレンスって究極的には、あってもなくてもどっちでもいいものです。コミュニティイベントの多くには、崇高な目的で頑張っている人が割と多いイメージがありますが、僕はちょっと苦手なんです。

もちろん使命感を抱いて実行することは素晴らしいし、否定もしませんが、金銭や組織のサポートなしで使命感だけで活動することは、その人に取ってよくてもスタッフや後進、ひいてはそのコミュニティのためにはよくないと僕は考えています。

特にコミュニティカンファレンスは、ボランティアスタッフの献身なくしては開催すらままならないのですが、そこにあぐらをかいてはいけない気持ちが強かったです。運営を支えてくれるボランティアスタッフにお弁当くらいは出したいですし、可能なら交通費だって用意したい。

自分の記憶が正しければ、宮川さんが2006年に立ち上げた初期のYAPCでは、まだ参加者も数百人の規模だったので、ほぼ宮川さん1人でもいろいろ回せていました。それで回っているうちはいいけれど、人が誰か抜けたり、予算が枯渇したりといった危機に直面すると弱い。結局、続かなくなるかもしれない。

僕も当時はセッションに登壇しつつ、当日のボランティアスタッフとして参加しましたが、あのイベント運営にはあくまで「スタンドプレーから生じるチームプレー」しか存在しなかったので、そのうち何とかしたいという思いもありました。

そのためにはカンファレンスのお金を手当しなくちゃいけないし、お金の流れをちゃんとしないといけない。別に儲けたいわけではありませんが、それで誰かが損をするのは避けたいですし、そもそも「やりがい搾取」は嫌いですから、必要以上に「やる気」をもらいたくはない。なるべく犠牲を出したくないという思いでやってきました。

むしろ、もっとビジネスライクに、モノや金を間にちゃんと挟む方がやりやすい。YAPCの運営を2009年に引き受けたときに、JPAという法人を立ち上げたのもそのためです。

ちょうど法改正で一般社団法人が設立できるようになっていたので、それまでのようにスタッフ個人の銀行口座を借用するのではなく、法人でお金を管理できるようにしたり、一方でずっと「死ねない」ままずるずると続く組織にもしたくなかったので、それも視野に入れて定款を整備したりしました。

そういうことも含めて、仕組みを組織という形で実装していくのは面白かったですね。ソフトウェアを書くのは好きでも、こういう仕組み作りには興味がないというエンジニアも多いと思うんですが、根本は同じです。それがときにコードだったり、ときに会社という組織体だったりするだけで、何かをするための仕組みを整えていくわけですから。

同じパーティでも参加者より主催者として

そんなこんなで2009年から2019年まで、何だか主催者側の立ち位置でいろいろやってきたら、いつの間にかそれが仕事になっていたのですが、そもそも運営側に行ったのは、どうせ参加するなら仕組みを作る方が楽しいし、メリットがあると思ったからです。

一番最初に参加したのは、YAPCの2006年あたりでした。そのときは宮川さんが「やる」と言い出したときに、たまたま比較的近くにいたので縁があったのです。

そもそも僕は、アメリカの大学を卒業後にアメリカで働いていたので、日本国内に知っているエンジニアがほとんどいなかったのですが、そのときよく出入りしていたPerl関連の掲示板のようなサイトで「miyagawa」という名前を発見して、「これは、日本人かな?」と連絡したのがきっかけです。

それが縁で、宮川さんが当時CTOだったライブドアで2004年から働くことになりました。YAPCとの関わりもそんな感じで、宮川さんから東京でもYAPCを開催するつもりだと聞いて、「これはチャンスだ」と思ったんです。特に根拠はなかったのですが、聴講者になるより発表者になろう、お祭りの実行者になる方が絶対に有利だって思っていました。

例えば、パーティなどで参加者として出かけて壁際でぼーっとしているくらいなら、主催者側になってキッチンに立って、自分の好きなものをふるまった方が満足感もあるし、その後の広がりがあるとおもうのです。特にカンファレンスの主催者なら絶対にみんなと話しますし。

ずっと「自分がやれることは何か」を考えてきた

昔はロックスターになれると思っていたのに、最終的に今のポジションに就いているのは自分でも意外だったのですが、とにかくこの先どうやって食っていくか? どうやれば自分のやりたいことをやりながら生き残れるか? を、1つ1つ考えていったらこうなっていた、という気がします。

現職については、プログラマとしての自分について前述した葛藤もありましたが、同時に以前の僕のカンファレンスに来て「同じようなカンファレンスをやりたい」と思ってくれる人が出てきて、内容は違ってもベクトル的には僕がやりたいことと似たカンファレンスを開催してくれる人が出てきたこと、つまり僕がやらなくてもやってくれる人が出てきた、ということも自分の中では小さくはない転換の理由になりました。

何より僕自身が、コミュニティカンファレンスにちょっと疲れてきていました。なので、一旦そちらに関しては僕はそろそろ身を引いて、違う側面から攻める方が自分の価値を生かせるかなと思って、それを職業にする道を選びました。

最終的に現職にたどり着くまでの中で、自分の取ってきた行動でキャリアに影響してきた部分を考えると、どれもこれも自分から突撃してきました。アメリカ時代に宮川さんにコンタクトしたり、東京のYAPCで登壇することにしたり、今の職場も「こういうことができます、条件はこうです。どうですか?」という感じで自分からアピールに行きました。

どちらにしても「自分がこの先何をやりたいか?」「それで生きていけるか?」を常に考えてきた結果かなと思います。アメリカにいたときも就労ビザが必要で、僕はまだ新卒、ドットコムバブルもはじけたばかりで、どこかの会社が僕を必要だと言ってくれなかったら、ビザは更新できず、帰国するしかありません。もし誰も僕を必要としてくれずにビザが切れたらどうしよう……ということが恐怖でしかありませんでした。

だから当時は、「アメリカで生活し続けるためには何が必要か」をずっと考えていて、そのために自分の知識、価値、他人との違いを深く考えていました。今でも自分の市場価値を知らないことが怖くて、そのタイミングですごく何が何でも転職したいわけでなくても、年に1回くらい定期的に履歴書を出して反応をみていたりもしています。

そこが原点かもしれません。知らない日本人に話しかけて仕事の斡旋をしてもらうのも、カンファレンスに登壇したり、開催側に回るのも、自分の価値がなくなることの恐怖から翻って、自分の価値を出せることをやるしかない、という思いがあって今の仕事にたどり着いたのだと思います。

※冒頭の写真は、builderscon tokyo 2019 Day 1より。

取材・構成:高橋睦美
編集:はてな編集部

*1:YAPCは、プログラミング言語Perlを中心とした技術系のカンファレンス。イベント名はYet Another Perl Conferenceの略で、Perlのモジュール名に倣って開催地域をYAPC::Asiaのように表記する。北米(North America)ではYAPC::NAとして1999年から、ヨーロッパのYAPC::EUは2000年から開催されている(ただし2017年以降はThe Perl Conferenceなどの名称で実施)。アジア地区では2004年と2005年に台北で開催され、2006年から10年に渡ってYAPC::Asia TokyoをJPAが主催。2016年以降の後継イベントYAPC::Japanについては https://yapcjapan.org/ などを参照。